帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(91)花の色は霞にこめて見せずとも

2016-12-06 19:04:14 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下91

 

春の歌とてよめる          良岑宗貞

花の色は霞にこめて見せずとも 香をだにぬすめ春の山風

春の歌ということで詠んだと思われる……春情の歌と言って詠んだらしい。 良岑宗貞(僧正遍昭の俗人だった時の名・三十五歳ごろ出家したという・父は平城帝の歳の離れた弟と思われれる安世親王で良岑姓を賜り臣となった人)

花の色は霞の中に込めて、見せていなくても、香りだけでも、ぬすめ・吹いて寄こせ、山の春風よ……おとこはなの色情と姿かたちは、彼隅に込めて、見、せずとも、彼を、谷よ、寝す見とれ、春の嵐よ・春情の山ばの心風よ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「花…木の花…男花…おとこ端」「色…色彩…形ある物…空しく儚いもの…色情」「かすみ…霞…彼済み…あれ済み…彼隅…あの隅」「みせず…見せない…見、せず」「見…覯…媾…まぐあい」「香を…香りを…彼を…あのおとこ」「だに…せめてそれだけでも…たに…峡谷…おんな」「ぬすめ…盗め(命令形)…寝すめ…寝取れ」「ぬ…寝」「春…春情」「山風…山ばの心風…嵐…荒ら荒らしく吹く心風よ(体言止めは余韻がある)」。

 

花の色彩などは春霞に包み込まれて見せないけれど、若やかな香りを盗め、春の山風・吹きおろせよ。――歌の清げな姿。

おとこ花の色情と姿かたちは、あれ済み、あの隅にこもり、見はしそうにないけれども、あのおを、たに間よ、寝す見とれ、その山ばの激しい春情の心風で。――心におかしきところ。

かすんで共に宮こに成れそにないから、我が色情を、寝取れと、命令ではなく、俗人が吾妻に懇願したのである。

 

国文学の和歌解釈は「清げな姿」しか見えていない。立ち返るべき原点は、以下に示す、平安時代の歌論と言語観である。(以下は再掲載です)。


○紀貫之は、「歌の様」を知り「言の心」を心得る人になれば、歌が恋しくなるという。(古今集仮名序)

○藤原公任は、歌の様(表現様式)を捉えている、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし」と(新撰髄脳)。優れた歌には複数の意味が有る。

○清少納言はいう、「聞き耳異なるもの、それが・われわれの言葉である」と(枕草子)。発せられた言葉の孕む多様な意味を、あれこれの意味の中から、これと決めるのは受け手の耳である。今の人々は、国文学的解釈によって、表向きの清げな意味しか聞こえなくなっている。

○藤原俊成は「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕われる」という(古来風躰抄)。顕れるのは、公任のいう「心におかしきところ」で、エロス(性愛・生の本能)である。俊成は「煩悩」と捉えた。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)