帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (140) いつのまにさ月きぬらむあしひきの

2017-02-02 19:17:31 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌の国文学的解釈方法は、平安時代の歌論と言語観を全く無視して、新たに構築された解釈方法で、砂上の楼閣である。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に、歌論と言語観を学んで紐解き直せば、今では消えてしまった和歌の奥義が、言の戯れのうちに顕れる。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 140

 

(題しらず)            (よみ人しらず)

いつのまにさ月きぬらむあしひきの 山郭公今ぞなくなる

(詠み人知らず・女の歌として聞く)

(何時の間に、五月が来てしまったのかしら、あしひきの山ほととぎす、今、鳴いているようね……井津の間に、早尽き来てしまったのでしょう、悪し退きの、山ばの且つ乞う女、いま、泣いているのよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「いつのま…何時の間…井津の間」「井・津・間…おんな」「さ月…五月(盛夏)…早尽き…月の言の心は男」「あしひきの…枕詞…(戯れて)悪し退き」「山…山ば」「郭公…ほととぎす…鳥の言の心は女…鳥の名…名は戯れる…且つ乞う・ほと伽す」「なく…鳴く…泣く」「なる…なり…推定する意を表す…断定する表す」。

 

ほととぎす鳴く声聞きて知る五月。――歌の清げな姿。

いつの間に、早尽き来たのかしら、あの山ばで、今・井間、且つ乞うと泣いている。――心におかしきところ。

 

ついでながら、清少納言枕草子(五月の御精進のほど)の話は、「郭公の声尋ねに行かばや」と言うと、我も我もと女房たちが行きたがったと始まる。この時、女たちは、「郭公・ほととぎす」の言の心を心得、戯れの意味も、上のような古今集の夏歌の意味も、皆、知っていたのである。

その帰り路で清少納言の繰り広げたパフォーマンス(車を卯の花盛りにして、路を走しらせ、雨の大内裏の土御門に突っ込んだありさま・道長の土御門邸のつもりらしい)を、行けなかった女たちも話を聞いて笑ったとある。この笑いを共に笑う唯一の方法は、「車」「卯の花」「路」「雨」「門」などの戯れの意味をも、言語観を同じくして「同じ聞き耳」をもって読めばいいのである。、「心におかしきところ」が顕れる。清少納言の深い心も見えるかもしれない。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による