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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。
普通の言葉では言い出し難いものを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。
古今和歌集 巻第三 夏歌 (159)
題しらず よみ人しらず
こぞの夏なきふるしてし郭公 それかあらぬかこゑのかはらぬ
題しらず(この歌も、寛平御時后宮歌合の歌である)、よみ人しらず(男の歌人の歌として聞く)
(去年の夏に、鳴き古びた・鳴き衰え老いた、ほととぎす、そうではないのか、カッコーと鳴く・声が去年と変わっていない……来ぞの懐・来てよ慣れ親しんだ感情、泣き盛り衰えた、且つ乞う女、そうではないのか、盛んにカツコウと泣く声、相変わらずだことよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「こぞ…去年…来ぞ…来てよ(巻頭の一首では、こそ、来る勿れと戯れていた)」「こ…来い(命令形)」「ぞ…強く指示する意を表す」「なつ…夏…懐…親しみ慣れた」「なき…鳴き…泣き」「ふるし…古し…老いし…衰えし」「郭公…夏に盛んに鳴く鳥…鳥の言の心は女…泣き声や名は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「声…カッコーと鳴く声…且つ乞うと泣く声」「かわらぬ…変わらない…(常に)変わらない…(嗄れもせず・勢い・激しさが)変わらない」
去年盛んに鳴いていたほととぎす、ではないのか、老いもせす、カッコーとお盛んに鳴くことよ。――歌の清げな姿。
来てよ、慣れ親しんだ感情の山ばと泣き続けた、且つ乞う女、ではないのか、泣き声は・変わらないなあ。――心におかしところ。
寛平御時后宮歌合で、合わされた左方の歌は、よみ人知らず(女房女官らが作った女の歌として聞く)
夏の夜は水やまされる天の川 流れる月の影しとどめぬ
(夏の夜は・梅雨時の夜は、水嵩増すのでしょうか、天の川、流れる月の、光が止まってしまったことよ……懐の夜は・親しみ慣れた感情の夜は、をみなや、高ぶり増さる吾間の川、流れる壮士の陰、留められないことよ)
「水…言の心は女」「あまの川…天の川…女の川…おんな」「あま…女…吾間…おんな」「川…言の心は女…おんな」「ながれる…移動する…(白つゆ)流れる」「月…月人壮士(万葉集の表記)…月の言の心は男…大昔(万葉集以前)の月の別名は、ささらえをとこ」「影…光…恵み…照るもの…陰…いんぶ…おとこ」「ぬ…(止めて)しまったことよ…完了した意を表す…(形及び白つゆ、留め)ないことよ…『ず』の連体形、打消しを表す」。
両歌とも夏の風物を詠んだ「清げな姿」をしている。女のエロス(生の本能・性愛)を表出した歌と、その女の性(さが)に驚嘆する男の歌の組み合わせである。歌合に出席の女たちは、歌の「心におかしきところ」を満喫しただろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)