帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 伊勢 (五)

2014-06-16 00:02:18 | 古典

    


                 帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。公任(きんとう)は、清少納言、紫式部、和泉式部、道長らと同時代の人で、詩歌の達人である。この藤原公任の歌論を無視した近世以来の学問的な解釈と解釈方法(序詞・縁語・掛詞などという概念を含む)を棚上げしておき、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直すのである。公任が「およそ、歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」ということの重要さを認識することになるだろう。



 伊勢 十首(五)


 いづくまで春は行くらむ暮れ果てで 別れし程は夜になりにき

 (どこまで、心の・春は行くのでしょう、終わることなく、友だちと談笑して・別れたころは、夜になっていた……どこまで・い尽くまでに、君の・春の張るは、逝かずに・行くのでしょう、果てることなく、別れたほとは、よるになっていた)



 言
の戯れと言の心

「いづく…いづこ…何処…居付く…井尽く」「井…おんな」「春…季節の春…青春…春情…張る」「行く…続いていく…逝かない」「ほと…程…時間的な間…時分…ほ門…おとことおんな」「ほ…お…おとこ」「と…門…おんな」「夜…よる…よれる…ものにすがる…よれよれになる」



 歌の清げな姿は、「あるある」というような事柄でもなく普通にあることである。

 歌の「心におかしきところ」は、あり得ないことだからか、女の願望が顕わになっているからか、大人なら男も女も、苦笑、失笑、微笑、大笑の、いづれにしても笑ってしまう。


 古今集仮名序に曰く、「目に見えぬ鬼神をも、あはれ(あらまあ…ご立派ね)と思わせ、男女の仲をも和らげ、猛き武人の心をも慰めるは歌なり」。

 


 群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。


 歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。公任は
清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で詩歌の達人である。優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。


 この言語観については、まず清少納言に学ぶ、枕草子(第三段)に言語観を述べている。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。