帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 春(十二) 花山院御製

2012-10-27 00:10:22 | 古典

    



            帯とけの金玉集 



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。


 公任の撰した金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が選ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。


 金玉集 春
(十二)花山院御製


 木のもとを住み家とすればおのづから 花見る人になりぬべきかな

 (木の許を住み家とすれば、自然に、木の花を見る人になってしまうだろなあ……男木の許で暮らすとすれば、ひとりでに、おとこ花を見るひとになって当然だろうなあ)。


 言の戯れと言の心

  「木…男」「もと…元…許…庇護の許」「花…木の花…男木の花…おとこ花」「見…覯…媾…まぐあい」「人…女」「ぬ…完了の意を表す…なってしまう」「べき…推量の意を表す…きっと何々だろう…当然の意を表す…するはずだ」「かな…感嘆、感動の意を表す…だろうなあ」。

 

歌による仰せごとを、撰者の公任に成り代わってとりつげば、次のようになる。


 男どもよ、女は万夜経るだろうとか、若い女が未練がましくものつまんだとか、多情だとか昔から言われるけれども、男木のお蔭を以てその許で暮らすのであるから、木の小枝に咲くお花を見て当然であろうなあ。それにしても、男のさがの弱さよ。ゆきふれば小枝は折れる、知らぬまにゆきふる、世の中に男木など絶えてしまえばどれほど長閑なことかと、昔から嘆くが当然であるなあ。

 


 「みる」という言葉は、目で見るという意味の他に、顔を合わせる、体験する、世話をする、結婚する、異性と関係するなどという意味を、もとより孕んでいることは、今でも知られている。古語辞典を見れば記されてある。

多様な意味のうち、この歌での唯一正当な意味は、花を目で見る(観賞する)だとして、その他の意味は排除される。これは近代人の理性的で論理的判断であるため、永久に揺るぎようがない。かくして、清少納言の「同じ言なれども、聞き耳異なるもの」それが我々の言葉であるとか、藤原俊成の、歌言葉は「浮言綺語の戯れ」のようなもの、そこに歌の趣旨が顕れるという言語観を曲解するか無視することになる。

 
 和歌は、言葉の多様な戯れをすべて受け入れ、逆手にとって複数の意味を表現する。言わば言葉の戯れを利用した文芸である。



 伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。