☆滝寿会幹事会報告
①日帰り旅行 9月24日(火)に予定している「水郷と承認の街並み 近江八幡フリータイム」
の参加具合を確かめました
日程としては、8時台に滝町を出発して、近江八幡フリータイムで見学した後
びわ湖大津プリンスホテルで、昼食をバイキング形式で食事をした後、天地天皇を
ご祭神として祀る 近江神宮へ参拝後帰宅するという予定
締め切りが8月31日なので、まだ10数名しか希望者はないとの事であった
②11月2日の「第2回秋を愛でる会」について説明とお手伝いのお願いをしました
日時 11月2日(土)AM10:00から13:00(未定)
会場 寿会いきいきガーデン
準備等の予定 11月1日(金)AM9:00~11:30位までおでん お汁粉の用意
PM5:00からいきいきガーデンにて、テント会場設置
11月2日(当日)AM9:00~荷物の運搬 準備
PM1:00から後片付け
③今後の幹事会はAM9:00から行うこととする 10時からは、太鼓の練習やごまんぞく体操と重なるから
④敬老会への参加を呼び掛けるとともに、不参加の人には記念品は配らなくてもいいのではないかとの意見が多かった
町役員や組長さんの方針次第だと思いますが、記念品を配るのに大変だったら、お菓子だそうだから、廃止したら
良いんじゃないかと、老人側から出たんだから、町役員さんたちとも話し合う余地があると思うのですが、、、、
⑤ことぶきたよりについて
2号を敬老会後に回覧で廻すことに予定しました
☆市民講座に参加して
主催が岡崎中央市民センターの市民講座「家康公生誕物語」と題しての講座に参加しました
講師は、もと学校教師の市橋章男さんです
家康公の研究者としては、有名な方のようです
滝新町の会長さんの挨拶の後、
講師の市橋先生のお話が始まりました
スライドを使っての説明です 私は4列目に座ったので、撮影は辞めました
家康公の生誕のものがたり ~生誕から人質生活、その背景と実像~
以後先生のお話から
滝町にある万松寺のお話から入られました
万松寺を作ったのは松平3代の松平信光で、今はお寺は改築されてしまったが、信光が羽織っていた
陣羽織が残されていて、今は美術博物館に納められているそうです
徳川家の家紋は、三葉葵であるが、いったいいつごろから三つ葉葵になったのかについても話された
信光の陣羽織の紋はつた紋だそうである。(つた紋とはどんな紋か調べたが、私の持っている本には載ってなかった)
7代の清康も8代の弘忠もつた紋であって、三つ葉葵ではないそうである
じゃ、どこから葵のご紋になったのかは、不明のようである
3代の信光は、今は重要文化財になっている信光明寺も建立したそうです
信光明寺の観音堂は釘を使っていない建築だそうです
信光の3男の4代親忠が、安城まで勢力を伸ばして行き、戦勝祈願の神、伊賀八幡宮を創建する
松平一門の菩提寺として、1475年大樹寺を創建する
この「大樹」とは中国語で将軍の意味だそうです。だから岡崎の他には大樹寺はないそうです
7代清康の時代に六所神社を松平郷より勧請する
「是の字の夢」をみて、龍海院を創建し、岡崎城も改修し居城とする
是は、日 下 人 → 天 下 人となり天下人が出る夢を見たというのだそうです
さて、いよいよ9代家康
家康が寅年、寅の刻に誕生し、その時刻に鳳来寺の、寅のお守りの仏像が消えたという話で
家康は寅の祭神の生まれ変わりだとされているが、実は母親の於大の方が次女に銘じて隠させ
家康が亡くなった時に、鳳来寺に返すように命じたと言われているが、そうすると次女は100才
位まで生きた計算になるが、、、、あの階段をとてもじゃないが登れるとは思えない私です
あーそうそう、於大の方という名前は、山岡壮八が徳川家康を書いた時にそう書いたから後は
於大になったそうで、伝通院と亡くなった後の戒名が正式で、女性は女としか書かれていないそうです
それは、私も以前本で読んだ気がします
人質時代の家康は、我慢強い忍耐の人と思われているが、本当は駿府城の縁側から放尿したり
部下を突き落したり、我慢していない人だったようである
ここまでで、時間が来てしまいお話は終わってしまった、、、、残念!
もう一つ、、、、伊賀八幡宮の本殿奥に描かれている八を表す鳥は、鷹だそうです
鷹が向かい合って描かれているそうです 八時半前に行くと入って見られるかもしれないとの事です
鶴岡八幡のは鳩だそうで、鳩サブレが有名です。伊賀八幡も鷹サブレを作ればいいと話されましたが、、、、?
結構いろいろなことが嘘でまかり通っているようで、お話は面白かった
続きが聴けたらと思います。
友人に三河の研究をしている人がいますから、教えて頂くのが良いかな?
今回は、会長から急に話があり、丁度予定がなかったから参加で来て良かったと思います