堂蓮記<北海道富良野成田山布部不動堂>

毎月の『御心言』と不定期の『祈願講釈』と徒然なるままの箴言・戯言・読書感想等・北の大地の坊主富良野生活記。

〈雑言・@tatsuomiyajimaの言葉より〉

2011-10-09 11:13:49 | 日記
@tatsuomiyajima おはよう! 「病」に関して多くのRTありがとう。これだけ多くの方々が病になるのはやっぱり個人の責任じゃなくて社会全体が病を抱えているんだと思う。ドイツに住んでいたとき、24時間営業のコンビニがないので、不便だなあと思い、ドイツ人の友人に聞いた。すると彼は意外な答えを言った。


@tatsuomiyajima 「24時間営業の店があるのは便利だけど、じゃあそこで働いている人はどうするの?寝られないじゃないか。私たちはそのことで議論もしてきたけど、便利さと引き換えに、誰かが人道的に劣悪な環境で働かされるのはダメだという結論になった。」と。健全だなあ。


@tatsuomiyajima 私たちの社会は、便利さと利益追求に、この60年間、本当に明け暮れてきたように思う。だからこそ、経済発展はあったのだけれど、かわりに「病」も抱え込んできたのではないか。


@tatsuomiyajima 四国出張。中沢新一「日本の大転換」を読む。特に面白い視点は、「原発は生物が生きる生態系の外部にあるもの」と。そして、同じ構造で、資本主義も当初は社会の一部であった市場というものが、肥大化して市場が社会を飲み込むことになった。との行。これはアートにも言えるのではないか。


@tatsuomiyajima アートは、今やアートマーケットが価値を決める。本来は、人と人の間で決められていた個別の価値が、市場がその質を左右してしまう。本末の転倒である。いっそ、金本位制、米本位制のように、アート本位制にして、その交換価値は人の心によってその都度計られるものにしたらどうだろう。


@tatsuomiyajima 3.11 以降のアートは、近代の概念を超え、ライフ・スタイルそのものがアートになるような、生き方としてのアートであろう。そこでは、アート作品は物々交換の通貨となり、米や醤油、魚などと交換できる。ただし、その価値は、米を作る農家の方、漁師が決める。


@tatsuomiyajima 「この大災害にアートは何ができるか考えています」とい若い人。「何もできない。アートは万能薬ではない。そのことを悟るべきだ」かぜをひいたら薬を飲む。アートで治す人なんかいない。アートは、災害直後に役立つのではなく、平時に、災害に出会ったときにどうすべきかの想像力を鍛えていく


@tatsuomiyajima ピカソの「ゲルニカ」という作品は戦争を止めることはできなかった。しかし、ピカソというアーテイストの存在と行動が世界中の人々の希望となって、その後、戦争の強力な抑止力になった。アートに平和は作れない。しかし、アーテイストには、それが可能だ。


@tatsuomiyajima 今、「柿の木」http://t.co/zmBCADhN の本を作るため、各地から原稿届く。グラスゴーから「平和は偶然に得られるものではなく。努力してつかみ取るものです。でもその過程は楽しいですよ!」と。アートが結ぶ縁。こうゆう人達と出会えることが何よりのご褒美。


@tatsuomiyajima 「不条理を扱えるのはアートにしかできないですよね。」昨晩のトークででた刺激的な質問。その通り。解など持たない、でも切実な問題を取り扱う。だから、面白い。

〈雑言・@h_ototake氏の言葉より〉

2011-10-09 00:30:27 | 日記
@h_ototake 1.身体障害者本人が、みずからの障害をどう捉えるか。それは、親の態度が大きく影響するのではないかというのが、僕の持論。「こんな体に生んでしまって申し訳ない」と考える親のもとに生まれれば、きっと当人も「自分は不幸の身に生まれたのだ」と十字架を背負わされたかのような心持ちになる...


@h_ototake 2.逆に「別に指なんて何本だっていいわよ」という、おおらかな親のもとに生まれたら、おそらくみずからの境遇に悲観することなく、障害を重たい十字架と感じることなく生きていけるのではないか。少なくとも、僕はそういう親のもとに生まれ、みずからの障害をとくに悲観することなく生きてきた。


@h_ototake 3.もちろん、どちらが正しく、どちらが間違っているということはない。どちらも、わが子を愛しているからこその思いだと思うから。ただ、生まれつきの障害者のひとりとして言わせてもらうならば、後者のような親のもとで育てられたほうが、障害者本人にとっては「ラク」だろうなあと思う。


@h_ototake 4.障害児の親は、愛ゆえに、生まれたばかりのわが子に「不幸」の烙印を押してしまっていないだろうか。障害者として生きていくことは、本当に不幸なことなのか。はたまた障害と幸福には、何の相関関係もないのか。それは親ではなく、本人が生きていくなかで判断していくべきことだと思うのだ。


@h_ototake 5.もちろん、平坦な道でないことはわかっている。いじめ、差別、偏見――。障害者として生きていくには、まさに多くの「障害」が待ちかまえている。でも、健常者に生まれたからといって、幸せな人生を歩めるとはかぎらない。そして、障害者に生まれたからといって、不幸になるともかぎらない。


@h_ototake 6.つまり、生きてみなければ、その人の人生が不幸かどうかなんて、わからない。どんな苦しい境遇に生まれても、大逆転でHAPPYな人生を歩むことになるかもしれない。それなのに、生まれた時点で「この子は不幸だ」と決めつけてしまうのは、あまりにもったいない気がしてしまうのだ。


@h_ototake 7.と、僕がいくら言ったところで、やっぱり子どもを生み、育てていくのは親だ。その親が、羊水検査をした結果、「やはり、障害者としての人生は不幸にちがいない。だから、私たちは中絶する」という決断を下したならば、何も言うことはできない。口をはさむべきことじゃない。


@h_ototake 8.そこで、僕が何らかの役割を果たせたらと思っている。「乙武さんみたいに、幸せそうに生きている人もいるな」――お腹のなかの子に身体障害があるとわかっても、僕の生きる姿から「産む」決断をしてくださる方が、少しでも増えるように。僕がメディアに登場する理由の多くは、そこにある。


@h_ototake 9.もちろん、「やっぱり、障害者なんて産むんじゃなかった…」と後悔することのないような社会にしていくことも、僕が果たすべき役割のひとつだと思っている。でも、こればっかりは、一人じゃどうすることもできない。どうしても、みなさんの理解と手助けが必要です。大切な命を守っていくために


@h_ototake 10.長文連投、失礼しました。「もしも、自分が障害のある子を授かったら」――そんな視点から、この駄文をお読みいただければ幸いです。最後に、障害の有無にかかわらず、ひとつひとつの命がすべて輝くものであってほしいと切に願って、この連続ツイートを終わらせていただきます。感謝。


@h_ototake うん、最高にね(*^-')b RT @Oni_Giri_Kun: いま幸せですか?