遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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全共闘について

2014-07-31 11:40:42 | エッセイ
       全共闘について       松山 愼介
『叛乱者グラフィティ』(宮崎学)の中に著者の友人の語った言葉がある。「党はすべてを要求する」「会社は私の人生のすべてまでを要求しない。党は全人生まで求める。党はそれほど絶対なものなんだろうか。お前、どう思う」この場合の党は日本共産党である。宮崎学はグリコ・森永事件で「キツネ目の男」として疑われた人物である。私は宮崎学の著書は他に『突破者』しか読んでいないが、今度この本を読んで彼がいまだに連合赤軍事件について考え続けていることについては敬意を表するものである。反代々木系の党派からみれば緩やかな組織と思われる共産党員にして、こういう意識である。反代々木の党派では全人格的忠誠が求められた。この党に対する全人格的忠誠と、銃による武装闘争が結びついた時、連合赤軍の誤りは必然だったのではないだろうか。
私は一九六〇年代後半から一九七〇年代初めにかけて学生時代を過ごした、いわゆる「全共闘」世代である。入学は一九六七年四月である。角材とヘルメットでの闘争は一九六七年十月八日の佐藤首相の南ヴェトナム訪問を阻止しようとした羽田闘争に始まる。この「武装」闘争に入ってからは党派への忠誠はもちろんであったが、個人の生活自体も物理的に、精神的に規制されていった。この規制は党からというより、個人の党への志向が、個人の内面を内から規制するものであった。私の場合パチンコをしながら、心の中で「俺は〇〇派だ。俺は〇〇派」とつぶやいていたことがある。私はこの年(一九六七年)の九月頃に〇〇派の学生組織に加盟した。それからの二年余りは向うから闘争の波がやってきた。私としては理論的な勉強をしつつじっくりと闘争に取り組むつもりであった。しかし、続いて佐藤首相の訪米、原子力空母エンタープライズの佐世保寄港、ヴェトナムの負傷兵を収容する王子野戦病院開設、成田三里塚に新空港建設決定と闘争課題には事欠かなかった。
ここで「全共闘」について考えてみたい。一九六〇年代後半から一九七〇年代初めにかけての学生を中心とした社会叛乱闘争を「全共闘運動」と一括して呼んでいる。しかしこれは便宜的なもので正しい呼び方ではない。「全共闘運動」は三つの段階に分けることができる。第一期は一九六〇年代半ばの慶応、早稲田、明治等の各大学における学費値上げ阻止の闘いで組織された「全共闘」である。しかしこの段階ではまだ全員参加型の学生自治会を前提としていた。次が日大全共闘、東大全共闘の時期であり、第三期は一九六九年春から、秋にかけて全国に拡がった学園闘争における「全共闘」である。この各大学の闘いと別の流れが三派系全学連の闘いである。
六〇年安保全学連崩壊後、全学連執行部は社会主義学生同盟(社学同、通称ブント)から、マルクス主義学生同盟(マル学同)に移行し、その後マル学同のカクマル派と中核派の分裂の結果、カクマル系となった、カクマル系以外の反代々木系諸派は、日韓条約反対闘争、原子力潜水艦寄港阻止、国際反戦闘争を経過するなかで勢力を回復しつつあった。この中で、分裂していた社学同系は統一社学同を結成し、マル学同中核派と社会主義青年同盟(社青同)解放派と共に一九六六年十二月に三派系全学連を結成した。三派系全学連は安保全学連のような大衆的闘争機関を目指していたため、社学同ML派、社青同国際主義派(第四インター)やプロレタリア軍団のような党派も結集した。前述の一九六七年十月八日の佐藤首相の南ヴェトナム訪問を阻止しようとした羽田闘争に始まる激しい闘いは三派系全学連が主導したものである。これらの闘いと並行して、日大、東大において学園闘争が開始され、その闘いの組織として全学共闘会議(全共闘)が結成された。
日大全共闘は大学理事会による巨額の使途不明金を追求する運動として開始された。そもそも日大では左翼の学生運動は、大学当局、右翼体育会による弾圧のため成立していなかった。そのため巨額の使途不明金を追求する運動は一般学生による運動として開始されざるを得ず、全共闘という形式をとったのである。東大闘争は青年医師の待遇改善運動が大学の閉鎖性と衝突し全学的な運動となった。この運動を理論面でリードしたのは、山本義隆、最首悟といった、安保全学連の生き残りであった。東大では代々木系が多くの自治会で多数派を占めていたため、自治会は闘う組織とはなり得ず、闘う組織として全共闘が結成された。
このような流れで、三派系全学連の街頭闘争と、学園闘争が結合する。普通この間の学生運動を「全共闘運動」と呼んでいる。一九六九年一月の東大安田講堂を中心とした攻防戦で、学生運動は一つのピークをむかえる。実は各大学における全共闘運動は、東大落城の後、一九六九年四月から始まり、あだ花の如く、半年間程続き、大学立法の成立、警察機動隊の導入により終焉する。私はこの一九六九年春から、秋にかけて全国に拡がった学園闘争こそ、本来の全共闘運動と呼びたいのである。
三派系全学連は党派間のヘゲモニー争いの結果、闘いの行動と目標については一致しつつも、一九六七年十月八日の直前には中核派系と反帝系(社学同と社青同解放派)に分裂気味であった。このような中で東大闘争において「全共闘」は三派系全学連に代わって、カクマル系、フロント系をも包摂するところの、ノンセクト、各党派の統一協議機関の役割を果たした。このような事情もあって、「全共闘」という言葉は広い意味で使われた。
東大全共闘は、形式的には、いわばノンセクトと党派のせめぎ合いであった。最終的な警察権力との闘いでは、ノンセクトだけでは無力であり、各党派の組織力に頼らざるを得なかった。

  「よく言われることだが、六〇年安保の全学連運動、六六年以来の三派全学連の闘いがあったからこそ全共闘運動は学生運動史上空前の規模で爆発した。そのことは間違いない。だが全共闘運動が必然的に戦術をエスカレートしていく中で、三派全学連をはじめとする革命党派の指導力が追いつかなくなったのもまた、とくに日大闘争などでは冷厳たる事実だったと思う。とくにブントにとっては、全共闘の気分にのった大学自治会の自立化により、党派としての指導力がますます脆弱になることが深刻な問題になった。」
                                     (荒岱介『破天荒伝』)

これは当時社学同委員長だった、荒岱介の回想である。全共闘運動の高揚と党派の指導力の問題がすな
おに語られている。私の場合でいえば、ある地方大学にいたのであるが、一九六九年の四月には、理由もなくとにかく学園闘争を起こすということが自己目的化されていた。闘いは入学式から始まった。教養部を中心としたノンセクトの部隊がいきなり入学式の会場となった体育館を封鎖したのである。諸党派の方針は入学式において壇上を占拠して新入生に対して政治的なアピールをするというものであった。諸党派はこのノンセクトの行動を黙認するしかなかった。諸党派の部隊と、ノンセクトの部隊が実力で対決するというわけにはいかなかったからである。代々木系といわれていた学長はこの体育館封鎖に対して「ナチスのようなファショ的行為である」という声明を発表した。ところがこの声明が、学生大衆を憤激させ、一挙に大学全体に闘いがひろがったのである。私はこのような学園闘争をこそ、本来的な全共闘運動と呼びたいのである。日大や東大のように個別の課題に対して闘うのではなく、この私が本来的なという全共闘運動は大学の位置、学生という身分そのものが闘争課題となったのである。私はこの一九六九年春に〇〇派を離脱している。ノンセクトで過激な運動ができるのであれば、何もわざわざ党派に縛られることはないという気分であった。この年私は大学三年生であったが、新一年生の大半は、教養部闘争委員会というノンセクトの組織で活動するようになっていた。全共闘は、党派に縛られないという利点のゆえに、多くの学生の結集軸になった。例えば、それまでは反代々木系の運動をしようとすれば、まずどれか党派を選択しなければならなかった。その必要がなくなっただけでなく、いつでも活動をやめられる組織でもあった。全共闘運動は、党派からみれば、弱者の運動、無責任な運動、党派に入る覚悟のないものの運動、すぐ止めるかもしれない学生の運動であった。
 全共闘運動は、大学立法の成立にともない、相次いで各大学が警察力を導入し、校舎の封鎖を解除することにより終結した。一方党派のほうも、カクマル派と中核派、解放派の死者をだすまでの内ゲバ、社学同内の赤軍派の結成により、大衆的基盤を失い凋落した。このようにして一九六〇年代後半から一九七〇年代初めにかけての学生を中心とした社会叛乱闘争は終った。一般的にいって党派の運動は悲壮感がただよっていて、全共闘運動は明るかった。党派の運動においては、組織に加盟した時から、頭の中に革命という文字がどっかと腰をすえてしまう。しかし全共闘運動は違った。全共闘運動はその闘い自体が楽しかったのである。闘いの方針はもちろんみんなで検討するのであるが、自分の考えと違う方針が決まれば、その個人は黙って、闘いの場面から退場すればよいのである。そしてまた自分の考えに合致する場面になれば参加すればよい。このようにして闘いに参加する個々人は入れ替わりつつも全体として運動が続けばよいのである。
 今、考えてみると、全共闘運動の退潮にともなって、党派の側からその否定面ばかり強調されてきた。しかし、全共闘運動の否定面の強調は、究極の組織、連合赤軍を生んだにすぎなかった。もし連合赤軍的な極端な軍事方針がだされたとしても、全共闘的な組織であれば、方針を実行する前に組織が解体したであろう。現在、一年前の同時多発テロ以来、平和運動やNGOの運動があるようである。私はその運動の現在における存立基盤に対しては、疑問であるが、運動の組織形態に関しては三十年以上前のことになってしまったが、全共闘運動が見直されるべきだと考えるものである。 
                          2002年9月16日

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