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文字の必要性のない世界

 豊かな生態系を育む環境の中で暮らす人々は、幾何級数的に膨らむ相互関係のコミュニケーション量に対処するため、自らの脳を発達させてきました。彼らの脳内の神経回路網(ニューラル・ネットワーク)は、その膨大な計算資源に対応して、より適切な〈重み付け配置〉を見いだし、環境の中にある〈意味〉を〈理解〉し、〈理解としてのイメージ〉を脳内の固定化したニューロン群として記憶していきました。彼らの驚異的な記憶能力がそれを支えていたのです。
 
こうした状況の中で、当然のことながら彼らの関心はまわりの世界、環境に向いていた、ということができるでしょう。正確には、環境世界との関係性=コミュニケーションに関心が集中していた、といっていいでしょう。環境との相互関係は人間同士のそれと比べてはるかに膨大で、人間同士の関係はそれらのほんの一部にすぎなかったのです。
 
環境の中に住み込む(すなわち運動と知覚を行う)生き物は、環境に含まれる多様な情報を探索し、獲得し、それを蓄積(経験)していきます。その環境の情報の中でもまず自らの外部に生じる“動き”の情報がもっとも重要となります。それらが彼らにとって重要な“振る舞い”を構成するからです。
 
環境の中で動くものは、動物に限らず、風に揺れる木々の葉など無数に存在します。それらの動き、振る舞いに対し、自ら直接的に行動することによって相互作用をおこし、それをまた知覚し、経験した過程の集積や結果があらたな〈意味〉を生み出していったのです。
 
環境の中にあるこのような〈意味ある振る舞い〉を生み出す存在を、考える「自己」意識をもった人間は、どのように捉えていったのでしょうか。相手が動物であろうと風でそよぐ草木であろうと、彼らはそれらを同じレベルの存在として捉えたのではないでしょうか。
 
その存在はかならずしも目に見えるものとは限りません。しかし彼らはそこになんらかの関係性を持った〈まとまり〉のある存在を感じていたはずです。考える「自己」意識をもった人間は〈まとまり〉のあるそれに他のものと区別するための〈しるし〉をつけていきました。
 
豊かな環境は〈意味ある振る舞い〉の宝庫でもありました。そこに暮らす人々は、そこに無数の〈まとまり〉のある存在を感じ取っていたに違いありません。そしてそれらを区別した〈しるし〉は時間が経過すればするほど増えていったのです。その〈しるし〉が環境の中の〈意味ある振る舞い〉を持った〈まとまり〉に対する〈理解としてのイメージ〉として脳内に蓄積されていったのです。
 
その〈しるし〉=〈理解としてのイメージ〉は、口や身体を使って発する“言葉”によって仲間たちに伝達されていきました。それらは同一の環境で、同一の振る舞いに遭遇し、同一のまとまりを感じ、同一のしるしとして理解していた仲間たちの、〈理解〉を操作し、コミュニケーションを成立させるうえで、十分な効果を持つ手段だったのです。
 
彼らの集団は、同一の環境を共有できなくなるほど大きくなることはありませんでした。彼らの集団が大きくなっていき、同一の環境の中に納まりきれなくなると、彼らの集団は枝分かれし、それぞれがあらたな環境へと分散していきました。そのような分散化を容易に可能にするほど、まわりの環境は豊かだったのです。
 
彼らが同一の環境の中で暮らす限りにおいて、口や身体を使って発する“言葉”を脳内に記憶する以外にその〈しるし〉を“文字化”すること、すなわちその“言葉”を持ち回れるように対外的なものに置き換えることへの必要性が生じなかったのです。すなわち彼らの社会は、文字を必要としない世界だった、といっていいでしょう。それでも彼らの脳内には、周囲の〈意味ある振る舞い〉につけられた〈しるし〉が時間の経過とともに大量に蓄積されていったのです。


環境にある〈意味ある振る舞い〉につけられた〈しるし〉が、〈理解としてのイメージ〉として、時間の経過とともに大量に脳内に蓄積されていったのです。

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