早めの時間に出て、のんびりアスランの家までの道のりを歩けば、一時間近くかかった。
約束ギリギリ。
大きな門の前でごくっと息を飲んで、インターホンを鳴らす。
少しの間のあと
『はい』
出たのはアスラン。
「キラ、です」
『ちょっと待って』
なんとなく、敬語になってしまった。
すぐに門が開く。
「いらっしゃい」
アスランが、緊張した面持ちで迎えてくれた。
促されるまま門を潜れば、予想以上の敷地。
「どうぞ」
これまた大きな玄関を開けられて、そっと中に入る。
ふっと、違う空気になった。
僕の家とは、明らかに違う。
人の住んでる気配がしない。
「こっち」
靴を脱いで出されたスリッパを履いてアスランのあとをついていくと、広いリビングが広がっていた。
「お客様?」
ソファに座っていた人が、腰を上げる。
アスランそっくりの、女の人。
一目で、お母さんだとわかった。
「キラ・ヤマトです・・・」
ぺこりと頭を下げると、アスランのお母さんはにこりと笑った。
あ、笑った顔もそっくり。
「はじめまして。アスランの母の、レノアです」
「座って。お茶淹れるよ」
「あ、うん」
促されて、お母さんの前に座る。
キッチンに消えていくアスランの背が、朝見たときよりさらに緊張しているのがわかった。
「アスランと、同じ年?」
「いえ、ひとつ下です」
訊かれて反射的に答えると、お母さんは「あら」と驚いて
「貴方が年下の子を連れてきたのは、初めてね」
とキッチンのアスランに声をかける。
「連れてきた友達自体、少ないでしょう」
「ラスティくんと、ディアッカくんと、イザークくんくらいね」
「ラスティはともかく、あとの二人は押しかけてきたんですよ。それに、ラスティだって最近は来てないじゃないですか」
僕はその親子の会話に、違和感を感じた。
どうして親子で、アスランは敬語なんだろう。
「母さん、お邪魔?」
「いえ、居てください」
お茶を持ってきたアスランが、退散しようとしたお母さんを引き止めた。
「お話が」
「お友達の前でする話?」
「キラがいるからできる話です」
僕とお母さんの前にカップを出して、アスランは僕の隣に座った。
「どんなお話?」
「楽しくない話ですよ」
アスランが、一口紅茶を啜って口を湿らせる。
その手が、微かに震えていた。
「率直に言います」
カップをソーサーに音もなく戻して、アスランは冷えた瞳でお母さんを見据えた。
「俺はザラを継ぎません」
その言葉に、お母さんは表情を崩さない。
アスランは立ち上がって、キッチンの棚から大き目の封筒を出してきて、お母さんの前に置いた。
封筒には、僕の志望校、国立の工学大学の名前が印刷されていた。
「こんなもの、どうしてキッチンに?」
「あの人が絶対に寄り付かない場所だからです。部屋はいつ荒らされるかわかりませんから」
再び僕の隣に座って、アスランは笑った。
皮肉を込めた笑い。
「大学まで行って直接貰ってきました。郵送でも学校を通しても、すぐに足がつくでしょうから」
「私に、どうしろと?」
封筒の中のパンフレットを取り出して、お母さんはそれを眺める。
アスランのほうは見ない。
「お名前を、貸していただきたい」
「名前?」
ふっと、お母さんが顔を上げる。
困惑した表情。
「部屋を借りるにしても、奨学金をとるにしても、保証人が必要です。未成年のうちは、保護者の名前が必要なんです」
僕らは子供だ。
一人じゃなにもできない。
今のアスランが、ひとりでこの話ができないみたいに、ひどく、無力だ。
一人じゃ生きられない。
「アルバイト一つでも、保護者の承諾が必要になる。そのとき、名前を貸していただきたい」
「この家を出て、奨学金を取って、アルバイトをして苦学生になる?」
「そういう人はごまんといます」
それは僕の台詞だった。
「部屋を借りる際にかかる初期費用は、いままでいただいた小遣いをお借りします。掛かった分だけ、働いて返します」
「この家を出れば、貴方は何もかも失うわよ?」
「失いません。むしろ得る方です」
「なにを得るの?」
その問いに、ふっとアスランの表情が緩んだ。
「自由と、夢と、大切な人を」
「大切なひと?」
「キラです」
ばくっ と、僕の心臓が跳ねた。
「キラが、決心するきっかけをくれました。ここで諦めたら、彼に愛想をつかされます。それだけは、避けたい」
「ただのお友達じゃ、ないようね」
「お見せしましょうか?」
関係を とアスランが笑う。
口元を歪ませて。
挑発するように。
「すこし、待ってて」
返事をせず、お母さんは立ち上がる。
「お父様に告げ口するんじゃないから、安心なさい」
そう残して、リビングを出て行く。
それを見送って、僕はふとアスランの手を見た。
膝の上で握られた手は、やっぱり震えていた。
その手に、そっと、手を重ねる。
「怖くないよ」
そう、子供にでも言い聞かせるみたいに言って、その手を包み込む。
それだけでアスランの震えが止まって。
「根性なしで、ごめん」
情けなく笑うアスラン。
ああ、そうか。
彼はずっと、笑顔ですべてを誤魔化してきたんだ。
困ったときとか、すぐに笑うのはもう癖になってる。
弱い人だなぁ。
つられて笑って、そっと、指を絡めた。
ほっと、アスランが息を吐いた。
「キラがいてくれてよかった」
「僕、なにもしてないよ」
「言っただろ、居てくれるだけでいいって」
ぎゅっと、アスランが手を強く握りこんでくる。
「俺は一人じゃ、なにもできないから」
なんでもできるように見せかけて。
そうやって周りに人を集めて、自分は一人じゃないと確認して。
踏み込まれると弱い自分を見られるのが怖くなって、突き放して。
やっぱり一人になってきた人。
そうやって、流されるままにここまできてしまった。
ああ、どうして僕は。
もっと早くあのときの勇気を搾り出さなかったんだろう。
どうしてもっと、早くこの人に出会えなかったんだろう。
もっと早ければ。
アスランがここまで傷つくことも、なかったかもしれないのに。
「お待たせ」
ゆっくりとした歩調で、お母さんが戻ってくる。
離そうとした手を、アスランがぐっと引き寄せた。
放したくない。
ひとりにしないで。
そう、言うように。
「これを、貴方に譲ります」
もといた場所に座って、お母さんは持ってきた封筒を差し出す。
その動作の合間に僕らの手を見て、表情を緩めて、中身を出してくれた。
「・・・権利書?」
空いた方の手で出された書類を取って、アスランは確認する。
なにか難しいことが書かれた紙。
「母さんが私費で買ったマンションです」
「・・・な!」
「いつ離婚しても困らないように、いつか必要になるかもしれないと思って、3年前に買いました」
「3年?」
「貴方が、お父様に夢を話した、すぐ後です」
アスランは言葉を絶する。
「すぐに権利譲渡の法的手続きをします。家具類も揃っています。生活に不自由はないはずです」
「ちょっと待ってください!」
「いくらでも名前は使いなさい。直筆サインが必要なときは、ここではなく、研究所のほうへ」
「母上!」
初めて聞く、アスランの本気で焦った声。
「本気ですか!」
「なにがですか」
「名前だけでいいと言ってるんです! こんなことバレたら、父上に・・・!」
「アスラン」
理解できない と言うアスランに、お母さんはやさしい声で呼びかけた。
「私はね、パトリックより、貴方のほうが大切なのよ」
穏やかで、寂しそうな声。
「あなたは!」
その言葉に、アスランがカッとしたように叫んだ。
「いつだって、俺の味方をしてくれたことはなかった!」
「貴方がそこまで追い詰められているとは、思わなかったのよ」
ちらり と、僕とアスランの、繋いだままの手を見て。
「貴方がそこまで弱い子だとは、思わなかったの。貴方はいつでも、笑っていたから」
ぐっと、アスランが言葉を飲み込む。
「気づかなかった私の過失よ。親失格ね」
だから と、お母さんは続ける。
「これくらいの償いは、させて頂戴」
僕はこっそり、アスランが持ったままの書類を見た。
載っている住所は、大学のすぐ近くだった。
あの辺は大きなマンションが並んでいて、この広さだととんでもない値段になる。
テーブルに置かれた、間取り図を見た。
3LDK。
一人で住むには広すぎる。
もしかしたらお母さんは、本当にお父さんと離婚して、アスランとここに住むつもりだったのかもしれない。
いつか、アスランの本気の訴えを、聞くつもりだったのかもしれない。
なんだ。
こんな身近に、味方はいたんだ。
味方だけど、二人とも臆病だから、言い出せなかったんだ。
アスランの手が、ふと離れる。
両手で書類を持って、難しい顔をして書類をあれこれ見て。
「この通帳は?」
一番下になっていた一通の通帳を見つけた。
アスランがそれを開いて、ページを捲って、最後に記帳された金額に目を見張る。
それをこっそり覗き見て、僕は本気で驚いた。
みたことないくらい、ゼロが並んでて、一目じゃ桁がわからない。
「全額、母さんの給料から出した、貴方の学費と生活費です」
「受け取れませんよ、こんな金額!」
「受け取りなさい」
ぴしゃり と、お母さんは間髪いれずに叱るみたいに言う。
通帳を閉じて表紙を見れば、名義はアスランになっていた。
「その通帳の存在は、パトリックは気づいていません。そういう風に、知り合いのいる銀行に入れました」
「しかし」
「よく聞きなさい」
アスランの反論を、お母さんは許さない。
「できることは、物権の譲渡、そのお金を渡すこと、学校に入る際とアルバイトをする場合に必要になる保護者として名義を貸すこと」
この通帳に記載されてるだけのお金があれば、入学金と4年分の学費と、4年分の生活費、まるごと出してもお釣りがくる。
「パトリックの手が届かないようにすることはできません」
「・・・っ」
「戦う勇気は、ある?」
アスランは、ぎゅっと僕の手を掴んで。
「一人じゃないなら、大丈夫です」
そう、言い切った。
「その子を、これ以上巻き込む気?」
「ここまできたら、毒を食らわばです」
お母さんの問いに、僕が答えた。
「それに、僕が言い出したんです。巻き込んでくれって」
だから
「一緒なら、なにがあっても大丈夫だよね」
アスランに笑いかける。
きょとんとしたアスランの表情が崩れて
「うん」
本当の、安心しきった顔を向けてくれた。
「俺、毒?」
「あ、ごめん。言葉のアヤ」
「毒、たしかに、毒かな」
「ごめんー」
くすくす笑いあっていると、お母さんはふっと肩の力を抜いて
「貴方のそんな顔を見たのは、初めてね」
親とは思えない言葉だった。
「我が子ながら、情けないこと」
「すいません、不肖の息子で」
「まったくだわ」
ふっと笑いあったアスランとお母さんは本当にそっくりで。
親子揃って、情けない顔だった。
あとちょっとだけお付き合いください・・・。
レノアさんはとても書きたかった人。
アスは完全に母親似だと思います(パトパパの立場って・・・)