到と至について
東南陸行 五百里 到伊都國
東南至奴国 百里
東行至不彌國 百里
南至投馬國 水行二十日。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
この箇所で気になるのが
東南陸行 五百里 到伊都國
とここだけ到の字が使われていて、その他の箇所はすべて至の文字が使われています。
「到と至」どちらも、~へ いたるの意味ですが
どうしてこの箇所は他の箇所と同じく至の文字を使って
東南陸行 五百里 至伊都國
とは書かず
東南陸行 五百里 到伊都國
のように、到の字を使用して書いたのかを考えたいと思います
当然この箇所には至の字を使用せずこの到の字を使用したのには
その理由があると思います。
この箇所に和訳を付けると
東南陸行到伊都國 (東南伊都國に到る)
東南至奴国 (東南、奴国に至る。)
東行至不彌國 (東、不彌國に至る。)
南至投馬國 (南、投馬國に至る。)
南至邪馬壹國 (南、邪馬壹國に至る。)
以前、中国語の老師(先生·教師)がこの到と至の意味の違いを説明してくれたことが有りました。
(この魏志倭人伝のこの箇所の質問をしたのではなく、通常の中国語学習の途上で)
その老師曰(いわ)く
到と至は、ほとんど同じ意味ですが、ニュアンスが少し違う。
たとえばバスの前面上部によくどこどこ行きと書いてある
パネルを見ると思いますが、到北京駅と至北京駅だと少し違うとの事です。
到北京駅は直接北京駅に行くバス(直行便)、至北京駅は北京駅にはもちろん行きますが、直接ではなく、途中他の場所を回りながら北京駅に行く(巡回便)のイメージだそうです。
交差点の道案内の看板で到北京駅と至北京駅だとすこしニュアンスが違う
到北京駅だと矢印の方向の道を歩いて行くと北京駅に到達するが、
至北京駅だと矢印の方向の道を歩いて行けば北京駅の方には行くがその道からは少し外れた所に位置している
の様な感じになる。
比較のために
東南陸行 五百里 到伊都國
東南陸行 五百里 至伊都國
と、2つ並べてみました。
上記の訳の違いを私なりに解釈して比較してみると
東南陸行 五百里到伊都國
[この道東南へ500里行くと伊都國へ着きます]
東南陸行 五百里至伊都國
[この道東南へ500里行くと伊都國の方(方面)へ行く]
こんな感じになるのではないかと思います。
ですから先の
東南陸行 五百里 到伊都國
東南至奴国 百里
東行至不彌國 百里
南至投馬國 水行二十日。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
これを和訳すれば
東南へ500里道を歩いて行くと伊都國に到達します(着きます)。
東南は100里行くと奴国方面です(奴国の方に行く)
東に行くと100里で不彌國方面です(不彌國の方に着く)
南へ船で20日程で投馬國方面です。
南へ水路だと10日程、道路を歩いて行けば一月程で邪馬台国方面です。
私が思うには、この箇所には到伊都國と
到が使われているということは
末盧國から東南方向に ダイレクトに(その道を歩いて行けば)伊都國に行ける街道が有ったのではないかと思います
そしてその道を歩いて行くと伊都國の端っことかではなく 伊都國の中心(首都)に着いたのではないかと思います
なので、その当時使用していた旧街道を探せば
魏志倭人伝(原文)に書かれている末盧國と伊都國の場所も特定できるのではないでしょうか?
⑫末盧國から東南方向に、伊都國に通じる旧街道があったはず!
用什么办法找到这条马路呢?
用怎么办法找到这条马路呢?
请谁帮我找找这条马路。
東南陸行 五百里 到伊都國
東南至奴国 百里
東行至不彌國 百里
南至投馬國 水行二十日。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
この箇所で気になるのが
東南陸行 五百里 到伊都國
とここだけ到の字が使われていて、その他の箇所はすべて至の文字が使われています。
「到と至」どちらも、~へ いたるの意味ですが
どうしてこの箇所は他の箇所と同じく至の文字を使って
東南陸行 五百里 至伊都國
とは書かず
東南陸行 五百里 到伊都國
のように、到の字を使用して書いたのかを考えたいと思います
当然この箇所には至の字を使用せずこの到の字を使用したのには
その理由があると思います。
この箇所に和訳を付けると
東南陸行到伊都國 (東南伊都國に到る)
東南至奴国 (東南、奴国に至る。)
東行至不彌國 (東、不彌國に至る。)
南至投馬國 (南、投馬國に至る。)
南至邪馬壹國 (南、邪馬壹國に至る。)
以前、中国語の老師(先生·教師)がこの到と至の意味の違いを説明してくれたことが有りました。
(この魏志倭人伝のこの箇所の質問をしたのではなく、通常の中国語学習の途上で)
その老師曰(いわ)く
到と至は、ほとんど同じ意味ですが、ニュアンスが少し違う。
たとえばバスの前面上部によくどこどこ行きと書いてある
パネルを見ると思いますが、到北京駅と至北京駅だと少し違うとの事です。
到北京駅は直接北京駅に行くバス(直行便)、至北京駅は北京駅にはもちろん行きますが、直接ではなく、途中他の場所を回りながら北京駅に行く(巡回便)のイメージだそうです。
交差点の道案内の看板で到北京駅と至北京駅だとすこしニュアンスが違う
到北京駅だと矢印の方向の道を歩いて行くと北京駅に到達するが、
至北京駅だと矢印の方向の道を歩いて行けば北京駅の方には行くがその道からは少し外れた所に位置している
の様な感じになる。
比較のために
東南陸行 五百里 到伊都國
東南陸行 五百里 至伊都國
と、2つ並べてみました。
上記の訳の違いを私なりに解釈して比較してみると
東南陸行 五百里到伊都國
[この道東南へ500里行くと伊都國へ着きます]
東南陸行 五百里至伊都國
[この道東南へ500里行くと伊都國の方(方面)へ行く]
こんな感じになるのではないかと思います。
ですから先の
東南陸行 五百里 到伊都國
東南至奴国 百里
東行至不彌國 百里
南至投馬國 水行二十日。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
これを和訳すれば
東南へ500里道を歩いて行くと伊都國に到達します(着きます)。
東南は100里行くと奴国方面です(奴国の方に行く)
東に行くと100里で不彌國方面です(不彌國の方に着く)
南へ船で20日程で投馬國方面です。
南へ水路だと10日程、道路を歩いて行けば一月程で邪馬台国方面です。
私が思うには、この箇所には到伊都國と
到が使われているということは
末盧國から東南方向に ダイレクトに(その道を歩いて行けば)伊都國に行ける街道が有ったのではないかと思います
そしてその道を歩いて行くと伊都國の端っことかではなく 伊都國の中心(首都)に着いたのではないかと思います
なので、その当時使用していた旧街道を探せば
魏志倭人伝(原文)に書かれている末盧國と伊都國の場所も特定できるのではないでしょうか?
⑫末盧國から東南方向に、伊都國に通じる旧街道があったはず!
用什么办法找到这条马路呢?
用怎么办法找到这条马路呢?
请谁帮我找找这条马路。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます