平成28年8月7日(日)
八月六日、午前十一時から、大阪市天王寺区の浄土宗慶恩寺において、
帝国陸軍騎兵少佐梅澤裕氏の三回忌法要が行われた。
梅澤氏の祖父も父も、帝国陸軍将校で、
祖父は日清戦争に従軍し、父は日露戦争に従軍した。
そして、梅澤氏は大東亜戦争に従軍したのである。
祖父も父も、日清日露の両戦争が終結して凱旋帰国した。
しかし、孫の裕氏には凱旋はなかった。
なぜなら、大東亜戦争は終結しなかったからだ。
なるほど、大砲弾が炸裂し機銃弾が飛び交って五体を砕く戦争は、
昭和二十年八月で集結した。
しかし、思想戦という目に見えない戦争が開始されたのである。
そして、梅澤氏は、敢然と立ち上がり、帝国陸軍の誇りにかけて、
自虐史観を固定化する為に捏造された故なき陸軍非難、故なき日本非難に、
事実を武器に断固とした反撃を開始した。
沖縄座間味島の戦闘における指揮官であった梅澤帝国陸軍騎兵少佐は、
戦後も日本を守るという任務を果たさんとして思想戦の戦士となり、
最後まで闘い続けたのだ。
つまり、梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐にとって、
戦前と戦後は断絶なく一貫して「戦中」であった。
その戦いのなかで、梅澤氏は軍人として亡くなったのである。
それ故、三回忌のお寺の本堂には、
梅澤氏の肖像の左に騎兵将校の正式軍装が掲げられ、
右手には凛々しい若き梅澤氏の軍装の写真と
将校服とマントそして指揮刀がおかれていた。
梅澤裕氏は、平成二十六年八月六日に亡くなった。
その葬儀が始まる時、
台風が兵庫県西部を南から北に打通して暴風雨となった。
しかし、出棺の時には風雨が止んでいた。
そして、三回忌の昨日の平成二十八年八月六日は、雲一つなく晴れ渡っていた。
次は、梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐の戦いの概略である。
梅澤少佐は、
昭和十九年九月、沖縄座間味島に陸軍海上挺進第一戦隊長として着任した。
翌二十年三月二十四日、五人の住民代表が梅澤隊長を訪れ、
住民は集団で自決するので手榴弾などの自決道具を貰いたいと要請する。
梅澤隊長は、自決はしてはならない食料は確保してあるので、
身を隠して生きのびよと住民を説得して引き帰らせた。
翌二十五日、座間味島に上陸したアメリカ軍と陸上戦闘が始まり、
梅澤少佐は、部隊を指揮して勇戦奮闘するなかで、
同年六月に負傷し、アメリカ軍の捕虜となった(昭和二十一年復員)。
そのアメリカ軍との戦闘の中で座間味島の住民が百七十二人も集団自決した。
昭和三十二年、週刊誌「週刊朝日」が、
座間味島の守備隊長であった梅澤少佐が、
住民に「自決命令」を下して住民を集団自決させたと報道した。
作家の大江健三郎が著書「沖縄ノート」で、
住民に自決命令を下して集団自決させた梅澤氏を極悪人と書いた。
以後、これらの記事や著作は、
戦前の日本軍が如何に冷酷かつ残虐な無道の軍隊であり、
戦前の日本が如何に無道の国であったかを裏付ける話として引用され、
歴史教科書にも登場するようになった。
平成十七年八月、梅澤裕氏は、渡嘉敷島の守備隊長で梅澤氏と同じ、
集団自決命令の汚名を着せられた亡赤松嘉次大尉の弟とともに、
「沖縄ノート」の著者と出版社である大江健三郎と岩波書店を被告とする名誉毀損訴訟を大阪地方裁判所に提訴した。
この訴訟は、平成二十三年四月、最高裁が「名誉毀損にあたらない」と判断し、
原告敗訴が確定する。
しかし、裁判所は判決文のなかで、
「集団自決命令の事実を裏付ける証拠はない」と明言する。
これにより、実質上、集団自決命令を下した残虐な隊長という汚名はそそがれた。
以後、集団自決命令を事実とする著作や記事や教科書は無くなる。
このようにして、梅澤裕氏は、闘うことによって、
「日本を取り戻した」のである。
そして、三年後の八月六日、梅澤裕氏は、
前々日の八月四日に朝日新聞が「従軍慰安婦強制連行」は虚偽報道だったと認めた事を知ったうえで、静かに眠りについた。
このこと、昨日の法要の席で、
梅澤氏の訴訟を支援する会の会長であった南木隆治氏が現認したと明言した。
また、法要には、弁護団全員が出席しており、
訴訟の為の現地である座間味島の聞き取り調査の思いでを語っていた。
そのなかで、次の話が印象的であった。
座間味の人々は、
穏やかな善意に満ちた人々で梅澤隊長に悪意をもっている人はいなかった。
八十歳を過ぎたお婆さんに、
梅澤隊長(二十五歳)は、どういう人だったと尋ねたところ、
お婆さんは、恥じらうように頬を赤くした。
若き少佐である梅澤さんは、島の娘の憧れの的だったんだと思う。
梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐は、
真の武士であり真の英雄である。
さて、梅澤氏の三回忌の昨日から本日、
中共が尖閣諸島周辺に攻勢をかけてきている。
そこで言う。
私は、この事態を参議院選挙の国家的争点にすべきだと闘ってきたのである。
「国防を語らずに選挙をするものは売国者である」
とまで時事通信に書いてきた(7月22日、1219号)。
しかし、政治の大勢は、
このことを取り上げることなく、
また、国民も関心を示すことなく、
私の主張は無視されたように、選挙が終わった。
そして、果たして、
平和と思い込んでいる日本国民の耳目が、
リオ・オリンピックに集まるのに合わせて
中共は、仕掛けてきた。
従って、この1219号通信と合わせて
次の時事通信も再読いただきたい。
7月3日、1214号「臨戦状況の中の選挙」
7月9日、1215号「国防は最大の福祉である」
7月27日、1221号「織田邦男空将の公表が我が国を奮起させる」
西村眞悟の時事通信より。
八月六日、午前十一時から、大阪市天王寺区の浄土宗慶恩寺において、
帝国陸軍騎兵少佐梅澤裕氏の三回忌法要が行われた。
梅澤氏の祖父も父も、帝国陸軍将校で、
祖父は日清戦争に従軍し、父は日露戦争に従軍した。
そして、梅澤氏は大東亜戦争に従軍したのである。
祖父も父も、日清日露の両戦争が終結して凱旋帰国した。
しかし、孫の裕氏には凱旋はなかった。
なぜなら、大東亜戦争は終結しなかったからだ。
なるほど、大砲弾が炸裂し機銃弾が飛び交って五体を砕く戦争は、
昭和二十年八月で集結した。
しかし、思想戦という目に見えない戦争が開始されたのである。
そして、梅澤氏は、敢然と立ち上がり、帝国陸軍の誇りにかけて、
自虐史観を固定化する為に捏造された故なき陸軍非難、故なき日本非難に、
事実を武器に断固とした反撃を開始した。
沖縄座間味島の戦闘における指揮官であった梅澤帝国陸軍騎兵少佐は、
戦後も日本を守るという任務を果たさんとして思想戦の戦士となり、
最後まで闘い続けたのだ。
つまり、梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐にとって、
戦前と戦後は断絶なく一貫して「戦中」であった。
その戦いのなかで、梅澤氏は軍人として亡くなったのである。
それ故、三回忌のお寺の本堂には、
梅澤氏の肖像の左に騎兵将校の正式軍装が掲げられ、
右手には凛々しい若き梅澤氏の軍装の写真と
将校服とマントそして指揮刀がおかれていた。
梅澤裕氏は、平成二十六年八月六日に亡くなった。
その葬儀が始まる時、
台風が兵庫県西部を南から北に打通して暴風雨となった。
しかし、出棺の時には風雨が止んでいた。
そして、三回忌の昨日の平成二十八年八月六日は、雲一つなく晴れ渡っていた。
次は、梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐の戦いの概略である。
梅澤少佐は、
昭和十九年九月、沖縄座間味島に陸軍海上挺進第一戦隊長として着任した。
翌二十年三月二十四日、五人の住民代表が梅澤隊長を訪れ、
住民は集団で自決するので手榴弾などの自決道具を貰いたいと要請する。
梅澤隊長は、自決はしてはならない食料は確保してあるので、
身を隠して生きのびよと住民を説得して引き帰らせた。
翌二十五日、座間味島に上陸したアメリカ軍と陸上戦闘が始まり、
梅澤少佐は、部隊を指揮して勇戦奮闘するなかで、
同年六月に負傷し、アメリカ軍の捕虜となった(昭和二十一年復員)。
そのアメリカ軍との戦闘の中で座間味島の住民が百七十二人も集団自決した。
昭和三十二年、週刊誌「週刊朝日」が、
座間味島の守備隊長であった梅澤少佐が、
住民に「自決命令」を下して住民を集団自決させたと報道した。
作家の大江健三郎が著書「沖縄ノート」で、
住民に自決命令を下して集団自決させた梅澤氏を極悪人と書いた。
以後、これらの記事や著作は、
戦前の日本軍が如何に冷酷かつ残虐な無道の軍隊であり、
戦前の日本が如何に無道の国であったかを裏付ける話として引用され、
歴史教科書にも登場するようになった。
平成十七年八月、梅澤裕氏は、渡嘉敷島の守備隊長で梅澤氏と同じ、
集団自決命令の汚名を着せられた亡赤松嘉次大尉の弟とともに、
「沖縄ノート」の著者と出版社である大江健三郎と岩波書店を被告とする名誉毀損訴訟を大阪地方裁判所に提訴した。
この訴訟は、平成二十三年四月、最高裁が「名誉毀損にあたらない」と判断し、
原告敗訴が確定する。
しかし、裁判所は判決文のなかで、
「集団自決命令の事実を裏付ける証拠はない」と明言する。
これにより、実質上、集団自決命令を下した残虐な隊長という汚名はそそがれた。
以後、集団自決命令を事実とする著作や記事や教科書は無くなる。
このようにして、梅澤裕氏は、闘うことによって、
「日本を取り戻した」のである。
そして、三年後の八月六日、梅澤裕氏は、
前々日の八月四日に朝日新聞が「従軍慰安婦強制連行」は虚偽報道だったと認めた事を知ったうえで、静かに眠りについた。
このこと、昨日の法要の席で、
梅澤氏の訴訟を支援する会の会長であった南木隆治氏が現認したと明言した。
また、法要には、弁護団全員が出席しており、
訴訟の為の現地である座間味島の聞き取り調査の思いでを語っていた。
そのなかで、次の話が印象的であった。
座間味の人々は、
穏やかな善意に満ちた人々で梅澤隊長に悪意をもっている人はいなかった。
八十歳を過ぎたお婆さんに、
梅澤隊長(二十五歳)は、どういう人だったと尋ねたところ、
お婆さんは、恥じらうように頬を赤くした。
若き少佐である梅澤さんは、島の娘の憧れの的だったんだと思う。
梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐は、
真の武士であり真の英雄である。
さて、梅澤氏の三回忌の昨日から本日、
中共が尖閣諸島周辺に攻勢をかけてきている。
そこで言う。
私は、この事態を参議院選挙の国家的争点にすべきだと闘ってきたのである。
「国防を語らずに選挙をするものは売国者である」
とまで時事通信に書いてきた(7月22日、1219号)。
しかし、政治の大勢は、
このことを取り上げることなく、
また、国民も関心を示すことなく、
私の主張は無視されたように、選挙が終わった。
そして、果たして、
平和と思い込んでいる日本国民の耳目が、
リオ・オリンピックに集まるのに合わせて
中共は、仕掛けてきた。
従って、この1219号通信と合わせて
次の時事通信も再読いただきたい。
7月3日、1214号「臨戦状況の中の選挙」
7月9日、1215号「国防は最大の福祉である」
7月27日、1221号「織田邦男空将の公表が我が国を奮起させる」
西村眞悟の時事通信より。