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フランス7月革命

2011年07月16日 16時30分00秒 | 歴史

 

Hippolyte Lecomte (1781–1857)【French Revolution of 1830】

 

フランス 7月革命   (フランスしちがつかくめい)

 仏: La Revolution de Juillet
1830727日から 29日にフランスで起こったブルジョア市民革命のことを云う。
フランスでは栄光の三日間 (仏: Trois Glorieuses) とも言う。

 

これにより、1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された。
ウィーン体制により構築された正統主義は部分的に崩壊し、ブルジョワジーの推すルイ・フィリップが王位に就いた。
その影響はヨーロッパ各地に波及し、ウィーン体制を揺るがせた。


 

1815年の王政復古により王位に就いたルイ18世は、フランス革命による成果を全く無視して、時代錯誤もはなはだしい反動的な政治を行った。この復古王政による政権は、アンシャン・レジームよろしく貴族や聖職者を優遇する政策をとり、市民たるブルジョワジーの不満は当然高まることになった。フランスはあたかも革命以前の状態に逆行してしまったようであり、ルイの後を継いだ弟シャルル10世も言論の弾圧、旧亡命貴族の保護の強化などを始めた。とりわけ、旧貴族がフランス革命の際に被害を受けた城館(シャトー)の代償のために10億フランの資金を国庫負担にする法律の制定は、市民階級の不満を高めた。


 


 市街戦, 市庁舎への襲撃
シャルル10世は国内の不満をそらす目的で、1830年7月にアルジェリア侵略を始めた(これが1960年代まで続くフランス領アルジェリア植民地の端緒となる)。それでも国内の不満は治まらず、ついには自由主義者が大きな勢力を持つに至った議会を強制的に解散させ、次の選挙における大幅な選挙権の縮小を命ずる勅令を発したが(七月勅令)、これは火に油を注ぐ結果となった。

7月27日、学生、労働者を中心にしたパリの民衆は、三色旗を翻して街頭にバリケードを築き始めた。シャルル10世は郊外のサン=クルー宮殿にいて楽観視していたが、パリで市街戦が始まると、鎮圧軍に戦意はなくじりじりと後退して、チュイルリー宮殿、市庁舎を相次いで占領された。7月28日、反政府派の指導者たちは、銀行家ジャック・ラフィット邸に集まって司令部を設置した。7月29日、スイス人傭兵の守るルーブル宮殿が民衆の襲撃によって陥落し、時計台に三色旗がはためいた。国王は驚き、七月勅令の破棄と内閣総辞職を決めたが、時すでに遅かった。

事態収拾はラフィットの主導のもとに行われた。国民の偶像ラファイエット将軍が担ぎ出された。7月31日、市庁舎のバルコニーにオルレアン公ルイ・フィリップがラファイエット将軍とともに姿を現し、民衆の歓呼の声に迎えられた。8月2日、ギロチンを怖れる国王シャルル10世は退位し、ランブイエ城からオーストリアに亡命した。後継政府には共和派の反対を押して、「国民王」ルイ・フィリップが立った。ここにフランスは立憲君主制に移行した(7月王政)。ラフィットは首相に就任した。

ルイ・フィリップは別名「株屋の王」であり「ブルジョワの王」であったため、市民たるブルジョワジーの不満は急速に解消されていった。ヴィクトル・ユーゴーによれば「フィリップ王はあらゆる階級の言葉に通じ、それを常に話していた。最もよくブルジョワ(中流社会)を代表した人物であったが、また一方でそれより抜きん出て万事にそれよりも優れていた」という。国王は自由主義と立憲王制を採用し、一定の成果を収めることに成功した。しかし制限選挙が維持され、革命の主体勢力であったプロレタリアートは再びないがしろにされ、不満をためていった。以後は、階級的意識に次第に目覚めていく労働者や農民の階級闘争へと様変わりし、18年後にルイ・フィリップはその報いを受けることになる


各国への影響[編集]

フランス7月革命の報はヨーロッパ各国に伝播し、革命運動に影響を与えた。

ウィーン会議の結果、旧オランダ共和国とともにオランダ連合王国に統合されていた南ネーデルラントでは、オランダの支配に対してブリュッセルで暴動が発生した。結果として、イギリスをはじめとする列強諸国は南部の独立を認め、翌1831年にドイツの小領邦君主の一族であるザクセン=コーブルク=ゴータ家の出身でイギリス王室ともロシアともつながりのあるレオポルド1世を国王に迎えて、ベルギー王国が独立を果たした(ベルギー独立革命)。なお、オランダが最終的に独立を承認し、領土問題が解決したのは1839年であった。

ポーランドは当時、ポーランド立憲王国という一種の立憲君主国であったが、事実上ロシア帝国の傀儡国家であり属国であった。7月革命を受けて、ロシアによる支配に対する不満という形で、民族主義者や自由主義者がワルシャワで革命を起こした(11月蜂起)。この革命はロシア軍によって鎮圧され、以後ポーランドの民族運動は逼塞した。

イタリアでは、カルボナリがナポリ・ピエモンテでの革命以来の復活を果たしたが、このカルボナリの蜂起はオーストリア軍によってすぐに鎮圧された。しかしカルボナリの理念は、自由主義者として即位したサルデーニャ王カルロ・アルベルトによって引き継がれ、後にリソルジメントとして結実する。

ウィーン体制は全面的な崩壊こそ免れたものの、部分的には大きく揺らぐことになった。なお、ウィーン体制が全面的に崩壊するのは1848年革命の時であった。

 

ウジェーヌ・ドラクロワは、フランス7月革命におけるパリ市街戦を題材として『民衆を導く自由の女神』を表した。これは7月革命をテーマとして書かれた絵画の中では最も有名な作品である。なお、この絵画の中に描かれているピストルを持った少年は、ヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』の登場人物の一人ガヴローシュのモデルとなったとされている。
フレデリック・ショパンは、故郷ポーランドの革命がロシア軍に圧殺されたと聞くと大変悲しみ、また憤り、この革命をテーマとして『革命のエチュード』(「12の練習曲」作品10の第12番ハ短調)を作曲した。
ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、短編小説集『絵のない絵本』第五夜の「月のくれたお話」として、フランス7月革命で勇敢に戦い宮殿の玉座の間で命を落とした無名の少年とその母親の物語を描いている。
エクトル・ベルリオーズは1840年に、政府の委嘱により7月革命10周年を記念する式典のための大規模な管弦楽作品『葬送と勝利の大交響曲』作品15を作曲した。
wikipedia より抄出し編集を加えてある。)

 

 

 

 

 

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■ 2009年7月9日
  「我が郷は足日木の垂水のほとり」 はじめました。
  本稿はその保管用記事です。

■ 2010年3月2日
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