岩淸水

心を潤す

宮本顕治のスパイ査問事件

2013年07月25日 08時37分10秒 | 歴史


宮本顕治のスパイ査問事件

 

宮本顕治 1908 ~ 2007

 

 

  source

 

 

 

 

以下は資料

 

詳細は「日本共産党スパイ査問事件#当時の裁判の認定による経過」を参照

1933年(昭和8年)12月26日、街頭連絡中に逮捕されるが、警察・予審の取調べには黙秘を貫いた。その間に、逮捕されたほかの人間への取調べから警察が突き止めたアジトが捜索され、床下より小畑達夫の死体が発見された。宮本らに「査問」の最中に暴行を受けた末に外傷性ショックで死亡したと、裁判で認定された。これがいわゆる日本共産党スパイ査問事件である。宮本は治安維持法違反だけでなく、この事件の加害者としても裁判で裁かれることになる。

収監[編集]

1934年(昭和9年)12月、市ヶ谷刑務所未決監に移監。 同月、百合子との結婚を届け出た。これは、事実婚では面会などに制限が加えられていたので、それを避けるという意味合いもあった。これによって、百合子との往復書簡のやりとりが可能になった。このやりとりを通じて、顕治は百合子に文学や生活についての意見を表明して、弾圧(百合子はこの時期に2度の執筆禁止の時期を経験している)や戦争の時代に、百合子の作家としての出処進退を一貫したものとするために助力した。また、百合子も、顕治に対して公判の維持のための資料の入手や作成に力を注ぎ、獄中での顕治を支えた。その点で、この夫婦は思想的に大きなぶれもなく戦後の時代を迎えた。

宮本の病気のため裁判の開始は遅れ、逮捕から7年後の1940年(昭和15年)に公判が開始された。第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)12月5日に、東京地方裁判所は殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、治安維持法違反、不法監禁、傷害致死、死体遺棄などにより無期懲役の有罪判決を下した。1945年(昭和20年)5月に大審院で上告棄却され無期懲役の判決確定(戦時特例により控訴審は無し)。6月、網走刑務所に移され、8月に終戦となった。

復権[編集]

1945年(昭和20年)10月4日、GHQの指令「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」が出され、これを受けて10月5日に司法省は政治犯の釈放を命じる。 政治犯釈放を翌日に控えた10月9日に出獄。 10月17日、勅令第580号勅令第580号(減刑令)により懲役20年に減刑。 1945年(昭和20年)、刑の執行停止状態に気づいた東京検事局が出頭を要求した。5月15日にはGHQ民政局より、日本政府に対して二人の復権を求める覚え書きが発給された。5月29日、昭和20年勅令第730号(政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件)に基づく復権証明書が発行され、二人の復権が決まった。共産党側は、この復権により一般刑法犯の有罪判決も治安維持法違反の一環としてなされた不当判決であり、無実であることが証明されたとしている。

詳細は「日本共産党スパイ査問事件#復権問題」および「治安維持法#廃止」を参照

上記GHQ指令とそれを受けた司法省の政治犯釈放命令および復権は、純粋な政治犯に適用されるものであって、治安維持法違反とともに監禁致死罪など一般刑法犯でも有罪とされた宮本は本来は対象外であった。そのため、その両者に復権を要求したGHQの手続きが問題となった。これはいわゆる復権問題として、スパイリンチ査問事件の存否とともに、1975年末に『文藝春秋』誌上で連載が開始された立花隆の『日本共産党の研究』で指摘があり、1976年には国会でも取り上げられた。(復権問題。後述)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E9%A1%95%E6%B2%BB

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