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【戦後 75年】犠牲者「100人超」、今なお謎 西鉄筑紫駅列車銃撃事件
8/6(木) 7:55配信
■終戦直前の惨劇 記録基に再検証
終戦のわずか1週間前の昭和20年8月8日、福岡県筑紫野市の西日本鉄道大牟田線筑紫駅付近で、運行中の列車が米軍戦闘機の機銃掃射を受けた「西鉄筑紫駅列車銃撃事件」。犠牲者は列車銃撃事件として最大級の64人とされるが、「100人を超える」との目撃証言も。戦後75年を経てなお謎に包まれる事件について、市教育委員会がまとめた記録を基に再検証した。(永尾和夫)
夏真っ盛りの8月8日、筑紫駅一帯に広がっていた水田の稲も30センチほどに伸びていた。戦闘機から機銃掃射されたのは、ここを行き交った上下2本の列車(ともに2両編成)だった。
西鉄の資料によると、下り電車が福岡駅(現天神駅)を出発したのは午前9時52分。乗客約200人でほぼ満員状態だった。途中で空襲警報が出たため1時間ほど停車して再び出発。その後も停車と避難を繰り返した。昼ごろ筑紫駅を目前にしたところで、戦闘機の機銃掃射を受け、筑紫駅ホームに滑り込んだ。5~6分の出来事だったが「車内は遺体が重なり、血の海となる修羅場と化した」。車体側面だけで100発余の弾痕を数えた。この銃撃で56人が即死、負傷者は100人以上としている。
一方、上り電車は午前9時ごろに久留米駅を出発。乗客は20人程度だったが、筑紫駅の一つ手前の津古駅を出発して間もなく機銃掃射を受けて8人が即死、数人が負傷したとしている。
だが、事件の公式の調査記録はない。遺体収容に当たった地元消防団長の記録は火事で焼失。筑紫村役場も昭和28年の水害で書類が水没した。西鉄も筑紫野市教委の問い合わせに「犠牲者名簿は所在不明」と回答した。このため市教委は、事件を風化させないため再調査し、11人の犠牲者名を特定。64人の証言記録を集め、平成30年に「西鉄筑紫駅列車銃撃事件の記録」としてまとめた。
◆満員で死者8人?
市教委の事件の記録が大きく異なるのは、西鉄の資料では上下2本の列車で合わせて64人とされる犠牲者数だ。事件直後に駆け付けた運転士の同僚は「犠牲者は上り列車7~8人。下り列車は収容先で62まで数えた」と語っているが、「実際は100人ぐらい死んでいるでしょう」と続ける。
また、上り列車の乗客が「約20人」というのも「間違い」という証言が多い。ある乗客は「座れる席は一つもないほどの満員だった。2両で120人から130人はいた」と証言している。機銃掃射は「操縦士の顔が見える」ほどの低空飛行で、繰り返し行われており「車内が満員で死者が8人だけというのはありえない」と話す。市教委の聞き取り調査に全体の死者数が「150人以上」との証言もあった。
被害者の収容先は近くの精米所や、神社、学校、西鉄二日市電車区などバラバラ。被害者の3分の1を占めた軍人は、別途引き取られたという見方がある。
記録をまとめた市教委文化財課の草場啓一さんは「64人は即死者の数の可能性もある。死者は少なくとも100人以上はいたという点で目撃者の証言は一致している」と話す。
◆判明した襲撃機
目撃者の多くは、襲撃機について「グラマン」4~7機と証言した。だが平成25年、大分県宇佐市の市民団体が米国国立公文書館で、機体に搭載した「ガンカメラ」の映像を見つけた。映像には福岡県久留米市の旧国鉄荒木駅機銃掃射などの映像とともに、筑紫駅での列車銃撃が動画で残されていた。これにより襲撃機は「P-51ムスタング」と判明した。筑紫野市教委も米国国立公文書館から戦闘機の行動を記録した「戦闘詳報」を入手。分析したところ、襲撃機は陸軍第340戦闘機中隊の「p-51」12機と突き止めた。
戦闘詳報によると、同中隊は沖縄の伊江島を出発。大分上空でB29爆撃機と合流する予定だったが、失敗して「臨機目標」に変更。旧国鉄荒木駅、筑紫駅周辺の列車を襲撃し、大刀洗飛行場上空を経て帰還したという。事件後に一部にあった八幡空襲(北九州市)の帰路説は否定された。
旧日本陸軍は本土決戦に備え、第16方面軍司令部を福岡市から筑紫野市の山中に掘った地下壕に移転するなど情勢は緊迫していた時期。一方、米軍は九州上陸作戦を前に都市攻撃を強化していた。6日の広島原爆と9日の長崎原爆という大事件の間に起きた惨劇…。事件の7日後に終戦となることなど双方ともに知る由もなかったのだ。
筑紫駅の西約300メートルの「ふれあい公園」にある筑紫平和祈念館。館内には、市が西鉄から譲り受けた当時の駅待合室を「平和のシンボル」として保存。天井には機銃掃射でできた穴が複数残っており、今も惨事の一端を伝える。同館は今年も8日、地元の筑紫自治会が平和祈念式典を行い、大石英機会長らが犠牲者を追悼する。https://news.yahoo.co.jp/articles/c41a980c5089ac47af1ed90cc90c791e8b5de8aa
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■ 2009年7月9日
「我が郷は足日木の垂水のほとり」 はじめました。
本稿はその保管用記事です。
■ 2010年3月2日
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