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ナチスばりの差別=もし許すなら、あなたも私も排除の対象者になってしまう!

2015年11月23日 | 自然・自然活動
 ご指摘ありがとうございます。「フォン・ガーソン?」としていましたが、正しくは「フォン・ガーレン」でした。また、6つある施設のうちの一つは、「ハマダー」ではなく「ハダマー」という地域でした。
 また、NHKでの最近になっての判明という発言ではなく、研究者の間では早くから知られていることということもわかりました。例えば1968年宮野彬氏『ナチスドイツの安楽死思想;ヒトラーの安楽死計画』(鹿児島大学)他があり、翻訳も1991年『灰色のバスがやってきたーナチス・ドイツのかくされた障害者「安楽死措置」』(山下公子訳草思社刊)などが出ていました。確認の上に掲載すべきだったと反省しています。

 お蔭様で、ネットにある日本医史学雑誌(49巻2号2003年)に載った泉彪之助氏(介護老人保健施設 陽翠の里)の記事も見つけ読むことができました。ありがとうございました。

 泉氏の論文は『精神疾患患者・遺伝性疾患患者に対するナチスの「安楽死」作戦とミュンスター司教フォン・ガーレン』というタイトルでした。

 この中で、このブログにあるような事実を伝えながら、ドイツにおけるキリスト教聖職者など関係者のナチスへの態度や、司教フォン・ガーレンが日本ではあまり知られない理由などに触れています。ここでは、フォン・ガーレン司教の3回目の説教の中から一部を引用させていただきます。

 病院から殺害を目的に大勢に人々が移送されている話を知らせ、古くなった機械や馬とは違う人間を官庁の委員会で「生きるに値しない」「非生産的」と判定されてしまう恐ろしさを訴えた後、次のように言います。

 「あなたたちも私も、何かを作り出すことができる 間だけ、他の人たちから生産的な人間と認められる間だけ、生きる権利があるのでしょうか?もし私たちが、「非生産的な」同胞を殺してもよいという原則を採用し、実行したなら、わたしたちみんな、年をとって老衰した時はなんと悲惨なことでしょう。もし、「非生産的な」同胞を殺害してもよいというなら、生産過程でその力と健康な四肢を提供し犠牲にささげ失った廃疾者は、なんと悲惨なことでしょう。もし、「非生産的な」同胞を暴力的に排除してもよいうというなら、重傷の戦傷者として、身体障害者として、廃疾者として帰還する勇敢な兵士たちはなんと悲惨なことでしょう!・・・・。」
 このようにして、次々と「非生産的」な範囲を広げていかれてしまうことになり、誰の命も安全では無くなってしまうと、更に具体的な例を挙げながら説いていきます。

 この説教の影響が大きく、ドイツ国内外に声がひろがり、中止に追い込まれたのでした。ヒトラー政権ではこの司教を処罰という声もありましたが、あまりにも大きい影響力を持っていたために得策ではないという判断で彼自身は生き延びることができましたが、その代わりに各地方の司教たちなどが犠牲になったということでした。

 日本でも、過日ある県の教育委員が経済効果の面からのみ考えてこの分野の金がかかりすぎるような発言をして批判されました。
 権力者はいつの時代でも、「生産的」という観点から人間を評価して、できるだけ福祉予算は削り、自己責任などという言葉を生み出して責務を放棄しようとするものですね。

 そして私たち誰もが障害者になったり、老齢化することを忘れさせられて、老若の対立などに巻き込まれてしまう危険もあることを危惧します。指摘のお蔭で学ぶ機会がありました。

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「生産的/非生産的」とは? +追記 (某大卒のネオナチ)
2015-11-27 23:39:35
そもそも「生産的/非生産的」という線引きが何を意味しているのかがよくわかりません。ここでいう「生産」とは何なのか。コストカットで業績を誇示するための方便として利用したいだけじゃないかとすら思えてきますね。
  「生産」が、いわゆる第一次産業(加工より手前)のことを指すとすれば、日本の就業者の過半数は「非生産的」(生産に従事していない)ということになります(第三次産業だけで半数を超える。統計局ホームページ参照)。万が一これに従うなら、プランテーションの黒人奴隷は歴史上でも指折りの「生産的な」方々でしょう。その成果がイギリスの産業革命と人種差別だとすると、随分と不毛な結末ですね。
  あるいは、働いているか否かという基準ならば、働いていない「健常者」(便宜上)は働いている「障害者」(便宜上)よりも「生産的」なのか。資本主義というシステムが不安定就労層を労働力予備軍として抱えざるを得ない以上、「生産的/非生産的」という言説には利権や責任逃れのニオイを感じざるを得ません。

  一つ補足を。僕は歴史学出身なので、先生や同期に紹介されたのはこの辺です。
石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書,2015年)307~309頁.
木畑「第三帝国期の「安楽死」と優生学」(http://ci.nii.ac.jp/naid/110000246008)および『1939』(同文館,1989年)所収の木畑論文.
エルンスト・クレー『第三帝国と安楽死』(批評社,1999年,独語版初版1983年)

  僕はむしろ、「非生産的」な土地を「生産的」にするために、権力者や学者が何をやってきたか、という問いに関心があります。端的に結論を言って、そういった連中は「非生産的」な人々を全員「撤去」して「生産的」な人々をその土地で生活させれば「生産的」になる、などという妄想を本気で信じていたようです。
谷「東方支配と絶滅政策」(http://ci.nii.ac.jp/naid/110009004120
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一つだけの物差しは? (マーちゃん)
2015-12-03 22:55:15
 コメントありがとうございます。
この生産的、非生産的ということにはうさん臭いイメージがあります。
 ナチスについてのこの文脈では当然、自由に解釈可能で権力者の胸先三寸でしょうね。
 戦後の日本の生産性向上運動などのように企業で目標を決めて労働者を競争させてきた歴史もあります。
 また、おっしゃるとおりに農業などの分野では、これを追求されると、農業の持っている環境保全や食料問題など生産性という物差しだけでは測れない重要な分野がないがしろにされてしまいます。
 今、安倍政権はこの分野でも、グローバル社会に生き残る農業とかで、競争に勝てる農業という側面のみを価値あるものとして国民に押し付け始めています。
 生産性とか、効率とかを最上のものとして考える価値観には疑問符をつけて考えるようにしたいと思います。
 著作はいろいろご紹介ありがとうございます。
 私は「ヒトラーとは何か」(セバスチャン・ハフナー著 赤羽龍夫訳草思社)はじめ何冊か読んでいますが、講談社新書も入手しようと思います。
 一般人はじめ、知識人などがどのようにして取り込まれていったのか、マスコミ対策をどうしていったのかなどを日本とのかかわりで考えています。
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