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遊名人壱實

まさかのものがまさかなものを作る意外性の面白さに溺れ狂っています。今後手遊びの作品を紹介したいと思います。

お彼岸フェスタ・音とあかりの饗宴

2015年09月24日 | 日本のあかり行灯
 21日、菩提寺で《長法寺お彼岸フェスタ》が開かれました。世界的なマリンバ奏者《カラムス》のお二人の
長時間の熱演に大盛り上がり、境内には夜店も出店、酒、ビールを片手に檀徒の皆さんもノリノリで楽しい初秋の
夜を満喫されました。
 そんな境内に、一週間ほど前、寺裏山の墓への帰り、住職から詳細を説明され≪行灯≫をとの話があり、了承。
当日60灯を持ち込み、皆さんのお手伝いのおかげで時間内に飾りつけることができた。
 マリンバの演奏も盛り上がりを見せたころ、お寺の《鐘》を合図に≪行灯≫は一斉に点灯された。帳が下りるにつれ
60灯の行灯たちは個性を主張し始め、それぞれが見事に会場の皆さんを≪あかり≫の世界へと誘ってくれた。
 また、近くに居ながらにして会うことのない同級生に暫らくぶりに再会、30年ぶりに懐かしい人に巡り合い旧交を
温め、意味の深いものを私自身堪能することができた。素晴らしい一夜になりました。
   
   里の寺音とあかりに誘なわれ
       夜店で遊びフェスタ楽しむ

  
   釣り鐘をともすあかりの空間に
         今夜も一献酒がうまいゾ

  
   マリンバに般若心経合わせ読む
        初秋の寺は彼岸のフェスタ


 私を大事にしていただいた、亡き先代住職が遺した庭園の観音様に行灯を添え、ひとり偲んだ。
   先代の遺した庭の観音様
      寄り添う行灯あかり一灯

 

温泉とおばけ灯籠

2015年09月17日 | 紀行・詠
 
 9月3日、高知行きのメンバーで今回は西予市明浜の《はまの湯温泉ツアー》、の前に宇和町『苔筵』に寄る。
先月来たばっかり、今更ではないが見事に整備された苔の筵に安らぎを感じる。店内に入ると、店主は覚えていた
『七億円センス』で・・・、大盤振る舞い『参億円』をプレゼントした。ここで八幡浜の20数年来の姉さんと待ち
合わせ、で合流。お互いを紹介、一時間余り話は途切れることもなく弾み、バイバイ。目的の明浜の温泉に向かう。
     再びの苔の筵の茶房にて
          静寂の中心を洗う

     

店を出て国道を走ること5分直ぐ後方100度に《おばけ灯籠》発見、普通の人では絶対に見えないであろう。私だから
おばけ灯籠が寄ってくるのです。右折≪宗合神社≫310灯目をカシャ。
     チラリ目に見せるおばけの
      愛おしさ今は余裕の笑顔で迎え

        

宇和の町を過ぎ国道を右折、風光明媚な宇和海を望み、春桜咲く頃には多勢の人で賑わう名所≪野福峠≫を超え、
入り江の海に沿った狭いの道を走ると明浜≪はまの湯≫がある。《温泉組》を下し私は《おばけ》探しに行く。

     

隣村の《狩江》にはネット調べで分かっている。衣料店で《春日神社》を尋ねると、この裏だという、ついでに
図々しく車をおかせてもらう。《おばけ》は角を曲がるとすぐにある、これは意外、調べでは鳥居の左右だと
ばかり思っていただけにラッキー311灯をカシャ。幅広いコンクリー段を登ると約束通り鳥居の左右に一対灯籠、
火袋は木組みで頑丈なもの、中台は名産石灰岩の縞模様がとってもきれいだった。植物に疎い私は分からないが
笠にはシダのようなものが一杯に生えていたのは凄い生命力に感激した。帰り際、車内にあった《桑名の千羽鶴》
をお礼にプレゼント。高山地区の《賀茂神社》でも一対の灯籠に出会った。所要1時間強、親切に探してもらった
村人老男さん、老子さんありがとう。後ろ髪をひかれながらも《温泉組》の待つはまの湯へ、

        

私も温泉へ、露天の塩湯にゆっくりと浸かる。今回は温泉所要時間は2時間という時短になったが、帰り道が
なんせ遠~い・・・けんゴメンな。
      雨上がり霞む宇和海はまの湯で
        まったり塩湯露天でゆったり

     

尚、温泉効果か、翌日老体の私の肌はスベスベとまではいかないが『スベ』明らかに温泉効果有りだった。
次回は《温泉3時間コース》で行こうな。私は《ひとり遊び》得意なんで。

亡びゆく木造校舎(6)朝日小学校

2015年09月10日 | 趣味工芸
 亡びゆく木造校舎も最後になりました。7年2ヶ月を要した菊間小学校から嵌った懐かしい木造校舎の模型作り、
贈呈から20数年後、閉校式の招待状に感動した吹屋小学校、ツバメの学校成妙小学校、夢のようなNHKの取材には
戸惑いながらも私の姿が全国の茶の間に流れた人生最大の大事件の歌仙小学校、県内最古の木造校舎仕七川小学校等々、
私の胸に残る思い出は言い表しようのない、貴重なものになった。
 6校の思い出に出会った人々は私の大きな糧となり、同人誌や42歳にして筆を持ち書く一文字7㍉の写経は1,200巻、
この写経に頂いた840ヶ寺の御朱印は私の御宝。表装から350余の行灯、木工細工まで20余の《趣味入門》はすべて独学。
この木造校舎が趣味の原点であり、今の私があるのだと強く、強く感じています。

 
        朝日小学校
       島根県松江市朝日町
   建築年・昭和13年 取壊し年・平成6年

  この校舎は、平田(現在は出雲市)の女性と知り合い情報をいただき、もの好きな私は訪れ、制作に至りました。
マンモス化した小学校は、白潟小学校と分離、校舎は昭和13年完成した。松江の町には相応しい左右対称の校舎の
屋根に《やぐら》聳える、絵になる風景だった。そんな朝日小も郊外の人口増加に伴いド―ナツ現象化という時の
流れには逆らえず、分離した白潟小と再び合併が決まり、来年より中央小学校となる。取材に訪れた時、子供たちが
中庭にある花壇の手入れにいそしみながらも、元気なかわいい挨拶で私を迎えてくれた。
 マンモス校舎の外壁は大雪に備えた二重柱、屋根は三段の《雪止め》は600もある。内部は3ヵ所もある階段には
手間がかかりそう、魅力のある素晴らしい《やぐら》。何といっても大校舎の大工事(制作)?だから士気は高なる。
 平成6年4月、図面を書き、制作にかかる。頑丈な二重の柱、三ヶ所の階段、250余りの窓には時間がかかった。
そんな時何度目かな『腱鞘炎』を患い中断、今回は二週間、何もせずに良い子でいた。完成したのは9月だった。
 贈呈にはまだ健在だった母親やその友人と賑やかに一泊旅行の気分で伺った。その頃は若かった母親たちは式の間
松江市内観光、これも母親との大きな思い出になった。
 さて、学校では校長先生始め多くの人々に迎えられた、まさかのテレビ局が三社に「勘弁してヤ~」シャイだから
駄目だと言ったのに!完全にパニクッた。新聞は4社、まあこれはいい、「記事の参考にして下さい」と制作記録書を
渡す。全校生徒の前での贈呈式を進められたがバッサリと「断る」。校長室で済ませた贈呈式、10名ほどの来賓と、
15人の報道陣、いつもは広い校長室もその日は狭かったのではないかな。長~い時間が経ったような気がする贈呈式。

   小京都櫓そびえる朝日小
     松江の町に威風堂々


その夜の10時頃のニュースに、翌朝の新聞にと、一躍時の人?と錯覚したのは紛れもない事実。
 以来6年間、松江を訪れ大山から大田辺りまで一円の幅広い親交を深め、有名歌手のコンサートや足を延ばした荒れる
日本海に浮かぶ隠岐の島。贅沢で素晴らしい時を過ごさせていただき、今も親交があることはありがたいことです。
 写真は瀬戸内の小さな半島を選んだ。遠くに今は廃航で見ることもない《オレンジフェリー》だったと思う。暑い9月の
日中待つこと二時間、おりしも通りかかった船の波が美しい、カシャ。

亡びゆく木造校舎(5)仕七川小学校

2015年09月03日 | 趣味工芸

     仕七川小学校
        北校舎
    愛媛県上浮穴郡美川村東川
 建築年・大正15年 取壊し年・平成5年

 ≪県内最古の木造校舎≫との出会いは偶然だった。平成3年西条寒風山から、西日本最高峰の石鎚連山の瓶が森へドライブ、
晩秋の石鎚スカイライン経由で今は盛りの景勝地面河渓の紅葉を愛で、美川の地にさしかかった時、目に飛び込んだ木造校舎。
 平屋建ての重厚な姿、東川川と面河川に合流地点にある、見逃すことはできない。フィルムを補充して校門をくぐる、校長
先生に趣旨説明、快諾を受け、そのまま取材県内最古かと思われる。屋根には初の《雪止め》がある。玄関の破風の細かい
細工に感動、長い廊下、整然と並ぶ梁、林業の里の校舎らしく大きな木材を贅沢に使った校舎は『すごい』の言葉より他には
見当たらなかった。写真を撮りイラストを描き取材を終え、校長先生に挨拶に伺うと「参考になれば」と、校舎の古い写真の
コピーをいただき失礼した。
 図面作成中いただいたコピーから今との違いを発見、学校に電話し理解を求め、当時に戻すことにし、制作にかかる。これで
制作は5校目、手慣れたもの、終盤初挑戦の《雪止め》に取りかかった頃、不覚にも手首に痛みが二度目の腱鞘炎にやむなく
中断。暫く休んだがどうしても横にある作りかけの校舎が気になる。痛みは和らいだ程度、手首を気にしながら少しずつ作る。
平成5年4月完成。写真は波方町の半島、瀬戸内の海辺の集落にある神社の鳥居を借景、カシャ。
 5月贈呈のため訪問、建築当時の戻った窓の違いに感心したり、これで校舎がなくなっても後世に残せると、校長先生より
全校生徒の前での贈呈式をと勧められたが≪シャイ≫な私、丁重にお断り、但し、新聞社の取材にはチャッカリと応じた。
 翌朝刊に《校舎の面影いつまでも》と題し、ジーさん?が優しい子供たちに囲まれたほのぼのとした記事で紹介されました。
 後日、校長先生からの手紙『開校百年記念事業の一環として・・・』と、身に余る扱いに感謝、と同封された児童達の作文、
童の温もりのある心に胸打たれ、またまた私の涙腺が緩んだ。
昨年同校を訪問し、校長先生に面談≪亡びゆく木造校舎・古稀・趣の想作展≫への出展の要請、私の最後の個展として
木造校舎6校を一同に集め、最後を飾りたい。

  峡谷の面河の川に育まれ
     純真無垢な仕七川っ子