「カゼニハマケナイ」といっているように見えた。
ケナシヤブデマリは,佐竹義輔博士(佐竹南家19代当主)が発見されその学名をつけた。学校山に静かに自生している。ケナシという名前をわざわざつけたのは,ケアリヤブデマリが存在していると言うことだと推察する。
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ケナシヤブデマリが自生している脇に,名水百選『力水』が湧き出ている。
だいぶ外回りは変わったが,あふれ出ている水は昔も今も変わらない。夏は冷たい。味はまろやかである。
湯沢のお米とお酒をはぐくむ水である。きっと,文化の源なのだろう。
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学校山から見下ろす湯沢の町(小さいなぁ~)。昔はもう少し華やかだったような気もする。
我らの学ぶ 姿にて
鳥海(とりみ)の山の 気高さは
やがて我らの 心なれ
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己が力を たよりにて
ここに集える 我が友と
楽しき時を 重ねつつ
強くやさしく 生(お)いたたん
(橘徳松作詞・与謝野晶子校訂・山本正夫作曲・佐藤長太郎編曲 湯沢西小学校校歌)
何度歌ったのであろうか・・。幾たびも幾たびも歌った校歌が口をついて出て来る。子ども時代の私の目に感覚に焼きついてきたものが,今の私を通して蘇ってくる。わたしの中でも過去と現在が交錯している。そして生きてゆく明日を,どのように積み重ねて行きたいのだろうか?と,思う。
多分この校歌が心に残るのは,静と動が,生きるということの静動がこめられているからなのだろう。己が力をたよりに生きたい,と思う。でもそれは,『自灯明法灯明』と教えられ,「とりみの山の気高さと己が力」と,毎日,伝えられ声に出してきたせいなのだろうと思う。ようするに,文化と他者がいつの間にか,私の外言から内言に変化していた,ということなのだ。
湯沢のわらしっこ(子ども):「まぐれんこ・す」
湯沢のおどな:「えぐ・でげぇだ・がぁ~」
湯沢のわらしっこ:「うまぐねぇ~」
湯沢のおどな:「しぇば,もう一回,しぇば・え-・べぇ~」
湯沢のわらしっこ:「んだな,もう一回,す・べ」
たぶん,こんな会話がその昔は,されていた。
『まぐれんこ』,自分からはもう思い出せもしなかったかもしれないと思う。
遠く遠く沈殿していた記憶の底から蘇ってきた,その音の響き・・・・・,と質感。
今,湯沢に住んでいる子どもたちが大人になったとき,このことばを懐かしいと思うだろうか。そして,そのことばとともに湧き出す子ども時代の生き生きとした記憶は果たしてあるのだろうか。
文化は多様な方がいい,
標準語で統一されていく未来に,多様な感情と思考は存在するのだろうか。と,ふと思う。
道の向こうに14,5歳の少年が小枝を手に持ち,笑うでもなく,怒るでもなく,口を真一文字にして,こちらに振り返った。少し,小柄でほっそりした少年は,まなざしだけで,何かを告げているようだった。ずいぶんと昔の少年のようだ。小道の向こうにそんな少年の姿があるような気配が,一瞬した。
『ふるさとを 愛するものは ふるさとの 土になれよと 鳴く閑古鳥』
昔の少年と,今ここに生きている私と,この場所で出会うのは不思議ではない。この里山の土には,過去に生きた人々の生活がしみこんでいる。
永遠という時間の扉が,一瞬だけ開く場所だろう。過去と現在が交流し,未来をともに思い描く場所なのだろうと思う。
その昔は佐竹南家,湯沢城のあった場所。この道を少し奥に進めば清涼寺(?)という城主の菩提寺がある。そして,父が少年だった時代,昭和の14年ごろは尋常高等小学校が立っていた場所である。私が,子供時代は,学校山という名前で子どもたちの遊び場だった。
学校山は,今は中央公園という名前となった。昼下がりの公園,子どもの姿も,人の気配もなく,ミンミンゼミの声だけが響きわたっていた。