大学に行く途中、同じ大学の先生と駅でばったりと行き合った。
学科が違うので、お互いに顔見知りという程度なのだが、その日はなぜだか、子どものころの話となった。
家の周りに職人さんがたくさん住んでいたんですとか、秋田のきりたんぽがどうのとか・・・。
そんな話しをしたのは多分、聞いてくださった先生の雰囲気によるものが大きかったのだろうと思う。
そのときに盆栽とか庭に置くような飾り石を磨いているおじいさんの話しをした。磨かれた石がとても美しく見えて、暇があればそこに遊びに行っていたことを。そのおじいさんの名前はもう忘れてしまったが、顔はうっすらと覚えている。ちいさい私を邪魔にする様子もなく、ただ一緒の時間を過ごしてくれた。きっと話しもしたのだろうが、もう覚えてはいない。
そのときに美しいと思った石がなんという種類の石だったのか、時折、大人になって考えることがあった。
先日、佐渡に行った折に、あの時の石と同じ輝きの石を見つけた。同じ石と断定はできないが、その時に、ああ、佐渡の石だったのかと思った。
おじいさんが削った石のかけらを集めて、家に持って帰っては、水をかけて、石の輝きに魅入っていた自分の姿を、なぜか、今の私は思い描ける。そんなはずはないのである。魅入っている自分の姿を見ることなどできるはずもないのだから・・・・。
記憶とは不思議なものだと思う。
ところで、大学の同僚の先生と話しをした日から、私は、今まで気づきもしなかったことに気づいた。
それは、私は今、石の彫刻家と生活しているという事実である。
あれ?もしかして私は、石が好きだっただけじゃなかろうかと。主人が磨く、黒御影石の輝き、磨かれた石が雨にぬれて漆黒に輝く様子、美しいと思う。
ちょっとこれは我ながら、まずい気づきをしてしまったのかも知れない。^^;
私が、美しいという概念を手に入れたのは、たぶんあの時の水にぬれた石の輝きからだろう。そして、そのときの美しさが、私の中での人が生きるということの美しさと関連しているような気がする。人を欺いて平気な顔をしている人を、たとえその人が大学の教員であろうが、政治家であろうが、何であろうが私はえらいとも美しいとも思えない。私にとって美しいものとは、無心に石を磨く、あのおじいさんのような姿とそこから生み出されたものの範疇にあるのだろう。
木坂涼さんの「ともだち」を読みながら、あの時の自分の姿を見る思いがした。懐かしかった。
子どもにとって、老人との出会いは、時としてとても大きな意味をもつようだ。その存在的意味を考えてみたくなる本だった。