私にとって8月4日は魔の1日だった。4時28分発のなすのに乗るべく余裕で駅へ。ない・・・。あの電車がありませんけど・・・,「運休になりました。」・・・・・・・・・・・・・・
あの~,大阪行きたいんですけど,この切符はどうなるんでしょうか?・・・・「乗り継ぎできませんから」・・・だからあの~・・・「切符とりなおしですね」
(なんで運休したかぐらい説明しろよな)
という具合で結局,5時28分までまって新幹線に乗る。それから乗り継ぎ時間9分というせわしさで,6時13分ぐらいの東海道新幹線に乗り,あとは順調!!と思いきや,浜松を越えたあたりで新幹線がとまる。車両故障でさんざんまたされた挙句,浜松まで戻され強制的に降ろされ後続の電車を待つことになった。浜松から後続の新幹線はぎゅうぎゅう詰めで,これで新幹線なのか?と思ってしまった(指定券なんて意味ないじゃん)。大阪に着いたのは23時半頃でしょうか。なんと那須をでて7時間,大阪ってこんなに遠いところだっけ???たしか4時間ぐらいで着くはずじゃなかったのかなぁ。
私の脳内辞書には不測の事態に備える,という余裕がありません。いつも,あ~,もうまにあわない!!って感じです。ですから,今回の不測の事態は痛かった。ホテルでパワーポイント作り直してなんて思っていたから,とんでもないことになりました。
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会場で,たまたま性同一性障害の方の講演を聞いたのですが,聞きながら,私は「脳の勘違い」ということばがこころに浮かびました。とてもその場で質問することは出来ませんでしたが。頭で考える性と体の性が違う。どちらが本当の自分なのか?と悩む。でも,頭で考えられる性がやはり自分であるとこだわるようです。それが人間なんだろうなと。自分が思い描く実態のない性が自分の本当の性なのか,身体に備わっている実態の在る性が本当なのか?なにかとても切なく,辛い現実があるのだなと思われました。
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病気で腕を失っても,脳は腕があるように感じる,それが幻肢である。それによって,『幻肢痛』に悩まされる。ラマチャンドランは鏡を使って腕があたかもそこにあるように見せる実験をして,脳をだましてみせました。
脳は勘違いする。
自殺しようと頭で考えても,その瞬間,体は生きようとしている,と玄侑宗久さんの本で読んだ。
であれば,勘違いする脳の考えにそんなにしばられなくてもいいんじゃないか?そう思えてしまう私がいる。
脳で考えることは,かなりあやしいぞ!という地点から考えた方がいいんじゃないのかな・・・と。
私の脳は勘違い脳だから,そんなに不一致感にこだわり固執しなくてもいいんじゃないかなぁ。それよりも,身体から響いてくる声にもっと勘違い脳は耳を傾けるようにした方がいいんじゃないのだろうか,と。