和貴の『 以 和 為 貴 』

日本は唯一の神国〔2〕 石田梅岩


石田梅岩 『都鄙問答』より

■ 鬼神を遠ざくと云う事を問ふ

日本は唯一の神国

〈別のある人が梅岩に問ふ。〔前述のつつき〕〉
「当然祭るべき自分の先祖以外の霊魂を祭るのは、その神に諂って服を求めようとするもので卑しいことだ」(子曰わく、其の鬼に非ずして之を祭るは諂ふなり)と『論語』(為政篇)はいう。わが国では、五穀が実ると神への恩返しとして、土地土地の神であれ、伊勢神宮の神であれ、初穂を供えたり神楽を奉納したりする。その点が支那と違っているが、あなたは、神々が皆、同列であるかのようにいう。どういう理由に基づくのか。

〈梅岩が答える。〉
『中庸』(第十六章)は、「鬼神の徳は実に盛大だ。(鬼神の姿を見ようとしても見えないし、その声を聞こうとしても聞こえないが)万物は鬼神によって形態を与えられており、余すところなく行き渡っている」(鬼神の徳たる、其れ盛んなるかな。{之を視れども見えず、之を聴けども聞けず}物に対すれども遺すべからず)といっている。

鬼神とは、天地陰陽の神をいう。「万物は鬼神によって形態を与えられており、余すところなく行き渡っている」とは、造化(天地創造)は鬼神の効用によるものであって、鬼神が万物をことごとく司る主であるという意味だ。

また、わが国では、伊弉諾、伊弉冉に始まり、日月星辰から地上のありとあらゆるものすべてを司り、その力の及ばないところがないので、「唯一の神国」といっているのだ。ここが重要で、よく考えないといけない点である。だが、わが国は、支那と違って、天皇が伊勢神宮(天照皇太神宮)の後を継いで、その位についておられる。だから、伊勢神宮を天皇家の先祖を祭る御霊屋として崇め奉っている。国の民を統べる「一天の君」のご先祖であるから、下々に至るまで万民が「参宮」といってお参りするのである。

支那にこのような習慣はない。わが国では、御霊屋を尊んで神楽や初穂を奉納する。今日の例でいえば、万民が天皇家に貢物を献上するようなものだが、神楽や初穂を奉納したからといって、その者自身が天皇家と関わりのある祭礼を執り行うことはできない。幕府の将軍であっても、天皇家の御祭事に関わることができないのだ。「政(政治と祭事)は、その地位にある者しか執行できない」(其の位に在らざれば、其の政を謀らず)と『論語』(泰伯篇)にもある。祭らなければ、支那と変わらない。

『論語』(八佾篇)に支那に関する次のような記述がある。
「魯の国で大夫の役にあった三家者(孟孫・叔孫・季孫の三家の者)が、先祖の祭礼の際に身分を無視して、『詩経』にある「雍」という歌を使った。孔子がいうには、『相(たす)くるは維(こ)れ辟公(へきこう)、天子穆々(ぼくぼく)たり』(天子の祭礼を手助けするのは大名で、天子は威儀を正し粛然としている)と歌われる詩だが、三家にとっては何の意味もないものだ。」(三家者、雍を以て徹す。子曰わく、相くるは維れ辟公、天子穆々たり。奚(なん)ぞ三家の堂に取らん)

魯の国の三家は、天子・大名の下の大夫という身分でありながら、天子の宗廟の祭礼でしか使わない歌を用いた。つまり、天子が祭礼を終えるにあたって、供物を下げるときに奏される「雍」という詩を歌って自分の堂で先祖を祭り、さらには天子が祭る泰山の神まで祭ろうとした。このように、己の身分を超え、世の中の理に背いたことをすれば、それは、取りも直さず、禁を犯して、してはならない行為をすることになるので、孔子は、「自分の先祖以外の霊魂を祭るのは、諂いである」といったのだ。

また『孟子』(尽心下篇)にも、「国の中で最も大切な存在は人民であり、その次が土地の神や穀物の神、一番軽いのは君主である」(民を貴しと為し、社稷(しゃしょく)之に継ぎ君を軽しと為す)とあって、その年の収穫した初穂を奉納する習慣は、支那でも普通に行われていることなのだ。わが国では、初穂や神楽を奉納することを祭りとはいわないのである。

たとえば「祇園会」(京都の祇園社の祭礼で「祇園祭」のこと)を始めとする御霊会(不慮の死を遂げた人の御霊などを鎮める祭礼)も、その土地の神の祭りである。その土地に住んでいる人々が平穏無事であることを喜んで、自分たち自身を祝うという趣旨だ。もし仮に人々の身に何らかの支障が生じたとしても、神事は執り行われる。このことからも個人的な先祖の霊の祭りでないことは明白だ。俗説に心を奪われることなく、本質的なことを推察しつつ、よく考えることが大事である。



石田梅岩(一六八五 ~ 一七四四年)江戸中期の思想家。石門心学の始祖。丹波の人。本名、輿長。小栗了雲に師事。実践的倫理思想をわかりやすく説き、町人層に歓迎された。著書『都鄙問答』は、松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助が座右の銘とした書である。


【 所 感 】

神の国とは、死して尚、その魂は後生の心の中に宿ることをいい、この国の恵みによって生を頂いたからには、やはりその魂は後生へと引き継がれていかなければならず、実にこの道は、辛くて悲しい道ともいえるが、この国の自然の恵みと触れ合うことで、辛さや悲しみを和らぐこともできる。

実に、真理・道理をも超越した存在であるわが先人先祖には、感謝の言葉しか出てきません。




(大阪・堺市 菅原神社 石田梅岩像)
今年の初詣は菅原神社へお参りさせていただきました。
現在は緑一色に塗装されておりますが・・・




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