論語を現代語訳してみました。
子罕 第九
《原文》
子曰、吾有知乎哉、無知也。有鄙夫、問於我空空如也。我叩其兩端、而竭焉。
《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、吾〔われ〕 知〔し〕る有〔あ〕らんや、知る無きなり。鄙夫〔ひふ〕 有りて、我〔われ〕に問〔と〕うや空空〔こうこう〕 如〔じょ〕たり。我 其〔そ〕の両端〔りょうたん〕を叩〔たた〕いて、竭〔つ〕くせり。
《現代語訳》
先師はまた、次のようにも仰られました。
〈琴牢〔きんろう〕よ。〉お主は単なる知識人としてありたいのか。そうではなかろう。
〈ある時、〉知識人とはまったくの無縁の人がいて、私にあれこれと尋ねてきたのだが、その姿勢は純粋で誠実そのものであった。
だから私は、あらゆる為政者を尋ねては、その人の仕官先を世話しようとしたのだよ、と。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
この語句の意味するところは、琴牢のように、「芸を修めること(知識人)さえできれば、出世ができるんだ」と考えるのではなく、「純粋さと誠実さを兼ね備えながら芸を修めようとする人こそが、国家政道を為すに相応しいのだ」ということを、孔子は伝えたっかのだと思います。
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考