さて、前回につづいて、社民党の掲げる基本理念についてその是非を改めて確認してみようと思う。
私たちは、戦争や紛争のない世界を実現するため、平和を願うすべての人々とともにありたい。
冷戦の終えん後、「平和と共存の21世紀へ」という多くの人々の期待とは裏腹に、競争最優先の市場万能主義に立つ新自由主義、そして強大な政治・経済・軍事力を背景に特定の価値観を押しつけようとする新保守主義が台頭しています。その結果、世界的な規模で格差や不平等は拡大し、紛争やテロはやむことなく、戦争の危機は依然として除去されていません。
冷戦の終えん後、「平和と共存の21世紀へ」という多くの人々の期待とは裏腹に、競争最優先の市場万能主義に立つ新自由主義、そして強大な政治・経済・軍事力を背景に特定の価値観を押しつけようとする新保守主義が台頭しています。その結果、世界的な規模で格差や不平等は拡大し、紛争やテロはやむことなく、戦争の危機は依然として除去されていません。
戦争や紛争やテロのない世界を実現するため、平和を願うすべての人々とありたい…、とする理念も素晴らしい考え方だと思う。
なにより、競争最優先の市場万能主義に立つ新自由主義や特定の価値観を押し付けようとする新保守主義…、という考え方に対し社民党は、真っ向から反対の立場であるという姿勢を示しており、格差や不平等を拡大させ、戦争や紛争やテロを企てる如何なる勢力も許さない、とした結果、その勢力の一部と化していた社民党が、今まさに消え失せようとしているのである。
このことは、崇高な理念のもとに支持をしてくれた有権者を悉く裏切ってきた結果であるわけだが、執行部とその関係者はきちんと反省し、何モノが格差や不平等を拡大させ、戦争や紛争やテロを企てようとしているのか、もう少し学習しなおす必要があるものと思われる。
この潮流に対し、社会の公正や連帯を掲げ、最も厳しく対峙(たいじ)しているのが社会民主主義です。私たちは、社会民主主義こそが次代の担い手であり、世界史の流れであることを確信します。
私たちは、社会民主主義を掲げる政党として、人々が個人として尊重され、自然と調和し、平和で人間らしく生きることのできる社会を実現します。人々が貧困や抑圧、偏見から解放され、安心して生活を営むことが可能となるよう、民主主義を拡充し、差別と格差、不平等の解消に取り組みます。
私たちは、社会民主主義を掲げる政党として、人々が個人として尊重され、自然と調和し、平和で人間らしく生きることのできる社会を実現します。人々が貧困や抑圧、偏見から解放され、安心して生活を営むことが可能となるよう、民主主義を拡充し、差別と格差、不平等の解消に取り組みます。
さて、次は本丸である『社会民主主義』に関してではあるが、自由主義から社会主義への転換というのは、まさにその通りで、行き過ぎた自由主義はあらゆる面で矛盾が発生し、その原動力をもって社会主義化するというプロセスは、現在の日本でも米国にでも見られることである。
現にわが国では自公政権の政策によって、一般庶民には社会主義化を、政・官・財含めた一部のエスタブリッシュメントやオピニオン・リーダー(支配階級層や上級国民層)には自由主義及び新自由主義を、という形で、さらなる格差や不平等が拡張されているわけであるが、社民党に所属する議員にはそのことが全くといって見えていないようで、記者会見などでは威勢よく崇高な理念を声高々にはしても、国会での質問ではいつも頓珍漢…。結局のところ国益(国民の利益)よりも個人の利益ばかりを優先していては、本来の政治家としての職務を全うしているとはいえず、かつ、支持をしてくれた有権者に対する無責任な振る舞いは、まさに「愚かもの」のひとことに尽きる。
そうした意味において、社民党に拘らず他の政党にもいえることだが、まずは国益(国民の利益)を優先した政治を心掛けるべきであるし、特に、労働者や弱い立場の人々に寄り添った政治を、というならば、しっかりと日本という国柄を学び、その国柄にあった形で国民の自由や権利を守るための政治活動や運動を実施していってほしいものである。
そのためには、国際組織である社会主義インターナショナルからの脱却と、前述した中江兆民や幸徳秋水の「君民共治」をしっかりと学び、戦中戦後の旧社会党を支えつづけた浅沼稲次郎氏の『社会主義運動』に対する想いをもう一度深く考えていただきたい。
戦後からつづいた55年体制が終了したことで、政・官・財すべてが腐敗し、自民党もまた官僚の意のままに操られ、多くの労働者が路頭に迷ってしまっており、本来ならば学業に専念するはずの学生や、労働に専念するはずの成年男女、そして若い世代を支えなければならないはずの壮年層までが、右だ左だといいながら、互いに罵り合っているのだから、日本全体の腐敗ぶりは、こうした観点からみれば一目瞭然のことである。
日本の社会は今、市場任せの利潤追求と効率性が最優先とされた結果、雇用の安定、人間らしい生活、自然環境の保護などが背後に追いやられ、人々の生命と安全が脅かされています。
また、新保守主義の潮流と呼応するかのように、戦後日本社会の礎(いしずえ)となってきた憲法を改悪しようという動きも、保守支配層によって頂点に達しています。
これらは、社会の存続、そして人間の歩みに深刻な影響を与えています。
さて、次は憲法を巡っての話ではあるが、「現在の日本は今…」のくだりから「人々の生命と安全が脅かされています。」というのであれば、その原因が現行憲法9条に及んでいることは明々白々ではあるが、社民党は如何なる憲法改正をも認めないとする態度をとっている。しかしながら、こうした憲法改正案に対する国家安全保障(=国防)における社民党の提案がまとまらない以上は、憲法9条改正における世論への口出しは避けていただきたい。(=道義的に欠ける行為)
さらに踏み込んで、「雇用の安定、人間らしい生活、自然環境の保護などが背後に追いやられ…」というのは、現行憲法の前文がもたらしめてのことだと考えてはいるが、これについては次回のブログで紹介しようと思う。
最後に、現在のわが国におけるリベラルも含めた左派というのは、保守を含めた右派もそうだが、大いに国益(国民の利益)の意味を履き違え、党利党略であったり、個人の利益を為すためだけに利用されたものでしかなく、右派であれ左派であれ、金儲けができれば何でもありといった具合に、東洋・西洋関係なく、その思想その哲学、その文学といったものが悉く汚されているように感じて仕方がない。
故・西部邁氏が著書『中江兆民 百年の誤解』の中で、〔兆民の考えた「君民共治」は、デモクラシー(民衆政治・民衆性)ではなく、その政治姿勢もデモクラティズム(民衆主権主義)ではありません。君民共治は、リパブリック(公衆制)と名付けられるべきものです。「公衆制」、それは政治形態における進歩の究極の姿だと思われます。〕 と。
さらに氏は、「君民共治」について、〔君主制に対抗するものとしての共和制と同じではないのです。君主と民衆に、さらには社会のすべての階級や階層に、潜在的にせよ共通しているパブリック・マインド(公共心)、それを基礎にして成立する(政体の枠組と方向をあらかじめ定めるものとしての)国体が公衆制なのです。〕と綴られている。
このほかにも紹介したいことは沢山あるわけだが、今回はこのあたりで…。