合唱で沖縄の言葉の歌をやっています。
本番までに暗譜なんですが,どうしても言葉が覚えられなくて四苦八苦。
意味から言葉を覚えてはどうかと,標準語訳をあわせて読んでも,大半の言葉が意味とつながらない。
そこで,試しに歌詞を書き写してみると,わからなかった意味がわかった,というか,
この言葉は標準語のこの言葉とつながっているのか,というのが不思議と,すんなりと感覚的にわかりました。
それはもういままでほんとに意味不明で嫌いだったのに,急にその言葉が可愛く思えてくるほどに。
(「ひちりみそ」とか「んかてぃ」とか「いちゅさ」とかねえ,ちょっとかわいすぎてまいります)
(まあそれでも中にはよくわからない言葉もまだありますけど)
言葉を書き写すというのは,当たり前ですが,一字一句言葉を確認しないとできないもので,
だから,書き写すことで,読むときには無意識に読んでいる母音や子音を改めてはっきり確かめられたから,
いままで気がつかなかった言葉のつながりに気がついたのかもしれません。
言葉へのアプローチは,大きくは読む・書くだと思いますが,
体の器官としては,インプットに耳と目と,アウトプットに口と手と,
あとは当然ながら頭(脳)を組み合わせてつかっているなと思っていて,
目でみて頭だけで読む(黙読)
目でみて口で読む(音読・朗読)
目でみて手で書く(=読む)
耳できいて頭だけで読む(=きく)
耳できいて口で読む(=会話?)
耳できいて手で書く(=読む)
目と耳をつかって口で読む(=楽譜をみながら歌うこと?)
目と耳をつかって口と手で読む(=小学生が読みながら書き写すこと?)
(頭で考えて手で書く)
(頭で考えて口で読む(=話す?創作?口頭伝承?))
こんな風に分けられるなあとおもって,
だからなんだというわけじゃないんですが,
たとえば,わたしの感覚の場合はですが,
何か考えているときは,書くのもいいけど,
人に話しながらとか,声に出してみると,するするっと考えがまとまったりして,
何かをつくるときは,頭だけや,目と手より,耳と口が有効だなと思うことが多くて,
長い文章や英語を理解しようとするときには,もちろん目と頭と,
ときどき手は線なんかをひくためにつかって,俯瞰するのが一番手っ取り早くて,
でも意味がとりづらいセンテンスは,黙読より声にだして読んでみると,文の構造がすっきりわかることが多くて,
また,詩や短歌は口にだしてみると,目で読むだけとは全く違う世界が広がったりして,
古典も,目だけでは意味がわからないけれど,声にだすとその雰囲気がわかったりして,
ようはもっと感覚的なそういうものをとらえるときには,目と口が有効だと思っていて,
でも今回みたいな,文章じゃなくてもっと細かく単語を正確に感じてみるには,
目と手をつかうことが有効なんだと感じて,
ただ「読む・書く」でも,知らず知らずに色々な方法で言葉に接近しているなとか,
それに,ちょっと脱線して,「書く」(=アウトプット)という一言をとっても,
まず手で書くとして,何で書くか(鉛筆か,シャープペンシルか(その場合ならどんな芯で,どんな種類で),
ボールペンやマジックなのか(これもまたペンによって書き味が全く違う)),
何に書くのか(また雑記帳に書くのか,捨ててもいいような裏紙に書くのか,
はたまたそれはお手紙かもしれない,そしてその紙の質によってペンの動かし方も変わる)でも,
同じようなことを書こうとしても,その内容や文体にかなり大きな差がでると思う。
それからアナログ以外にもデジタルで書くことも多い昨今ですが,
デジタルにしたって,パソコンのキーボードなのか(デスクトップかノートパソコンか,それにキーボードも種類によって打鍵の感じが全然違う),タブレットのフリック入力なのか,ガラケー携帯のボタンで入力するのか,ポメラで書くのか,これもまたそれぞれで書く内容は変わってしまう。
パソコンやタブレットでは,さらにそのアプリケーションが何なのかでもきっと変わるはずで。
メールなのか,ラインなのか,ツイッターに書くのか,こういうブログにするのか,フェイスブックでも違ってくる。
口で「書く」をするのでも,
それは会話なのか(それもまた相手によって話し方はいくらでも変わる),
朗読や音読なのか(それはどんな声でやるのか,読み方は,スピードは?),
歌の場合だってあるし,わたしはしないけど,詩吟もあって,それによってまた内容やその雰囲気は変わる。
同じように「読む」(=インプット)にも,きっと山ほどの場合が考えられると思う。
こっちはたとえば,文字の表記が,同じ意味の同じ言葉も,漢字かひらがなかカタカナかローマ字かで,
全く受けとり方が違う。フォントでも全く違うと思う。耳できいても,字面が重ならないこともよくよくある。(わたしはよく困る)
さらに誰かの発する言葉をきく場合は,その人その人ごとにも違うわけで。
単純に「読む・書く」にも,そのときどきに,そのそれぞれ,何通りも組合せがあって,
それでそのときやりたいことに一番有効なものは何なのか,考えてみたりして,
(ちなみにわたしはこういう文章を書くときは,パソコンのメモ帳で書くのが一番書きやすいと思っていて)
(でもまだ文章にもならないようなばらばら考えを整理するときは,雑記帳に好きなボールペンで書き殴るのが好き)
(思いついた変な詩みたいなものは,ガラケーの携帯の文字入力で作るのが有効だったりする)
ともかくも,あー言葉って,脳ってやっぱり不思議だなーと,そんなことを考えたのでした。
といっても,わたしは言葉や脳の専門家でも研究家でもありませんので,あくまでわたしの感覚の話です。
矛盾やおかしい点もたくさんあろうかと思いますが,お見逃しください。
それにしても,今回の沖縄の言葉と標準語のつながりに気がついたときや,
以前「ラテン語を覚えたい!」という中二病を発症して勉強していたときに,
ラテン語の単語が,知っている伊語や仏語や,英語にも似ているなー!と思ったときも感じましたが,
違う言語なのに,似ている言葉をみつけるとなんだかうれしくなりますね。(沖縄はべつに他言語じゃあないけど)
それから同じ日本語でも,この言葉はこの言葉が基になっているとか,
そういうことを知るのも無性にたのしさを感じる。
言葉はこんなに恣意的なのに(というか恣意的だからこそ)
そのつながりをみつけたとき,わけもなく喜んでしまうのかもしれません。
それはある意味,未知の動植物の進化図や同系種や生息地の分布をさがすような気持ちで,
つまるところ人類の頭が地球なのだとしたら,言葉は,そこに生息する無数の野生動植物みたいなものですね。
(外来語は,ようは外来種なわけで,組み合わさった言葉は,配合の結果で,なんて妄想は尽きない)
ということは,昨今ひろがる語彙や言葉の衰退の問題は,環境問題ということでしょうか。
そうすると,絶滅種や砂漠化や海面上昇はなにかしらリアル。トキの保護はなんでしょう。
いつもながらですが,結局なんのこっちゃ,ということで終わり。
まあ,言葉というのは考えるほどに新しくて飽きなくてとても面白くて大好きです,ということで,
これからも言葉とはずっとこうして付き合っていきたいです。
いまは日本語ばかりだけど,英語ももっと勉強して,
こんなことを考えられるようになりたいのがひそかな夢。
ということで英語もがんばろう,と自己暗示。
ちなみに歌の本番は6月15日16時ごろ@伊丹です。
歌うほかに,軽くおどったりハイヤイヤササしたり。よろしければどうぞ。
http://hyogo-jca.com/
本番までに暗譜なんですが,どうしても言葉が覚えられなくて四苦八苦。
意味から言葉を覚えてはどうかと,標準語訳をあわせて読んでも,大半の言葉が意味とつながらない。
そこで,試しに歌詞を書き写してみると,わからなかった意味がわかった,というか,
この言葉は標準語のこの言葉とつながっているのか,というのが不思議と,すんなりと感覚的にわかりました。
それはもういままでほんとに意味不明で嫌いだったのに,急にその言葉が可愛く思えてくるほどに。
(「ひちりみそ」とか「んかてぃ」とか「いちゅさ」とかねえ,ちょっとかわいすぎてまいります)
(まあそれでも中にはよくわからない言葉もまだありますけど)
言葉を書き写すというのは,当たり前ですが,一字一句言葉を確認しないとできないもので,
だから,書き写すことで,読むときには無意識に読んでいる母音や子音を改めてはっきり確かめられたから,
いままで気がつかなかった言葉のつながりに気がついたのかもしれません。
言葉へのアプローチは,大きくは読む・書くだと思いますが,
体の器官としては,インプットに耳と目と,アウトプットに口と手と,
あとは当然ながら頭(脳)を組み合わせてつかっているなと思っていて,
目でみて頭だけで読む(黙読)
目でみて口で読む(音読・朗読)
目でみて手で書く(=読む)
耳できいて頭だけで読む(=きく)
耳できいて口で読む(=会話?)
耳できいて手で書く(=読む)
目と耳をつかって口で読む(=楽譜をみながら歌うこと?)
目と耳をつかって口と手で読む(=小学生が読みながら書き写すこと?)
(頭で考えて手で書く)
(頭で考えて口で読む(=話す?創作?口頭伝承?))
こんな風に分けられるなあとおもって,
だからなんだというわけじゃないんですが,
たとえば,わたしの感覚の場合はですが,
何か考えているときは,書くのもいいけど,
人に話しながらとか,声に出してみると,するするっと考えがまとまったりして,
何かをつくるときは,頭だけや,目と手より,耳と口が有効だなと思うことが多くて,
長い文章や英語を理解しようとするときには,もちろん目と頭と,
ときどき手は線なんかをひくためにつかって,俯瞰するのが一番手っ取り早くて,
でも意味がとりづらいセンテンスは,黙読より声にだして読んでみると,文の構造がすっきりわかることが多くて,
また,詩や短歌は口にだしてみると,目で読むだけとは全く違う世界が広がったりして,
古典も,目だけでは意味がわからないけれど,声にだすとその雰囲気がわかったりして,
ようはもっと感覚的なそういうものをとらえるときには,目と口が有効だと思っていて,
でも今回みたいな,文章じゃなくてもっと細かく単語を正確に感じてみるには,
目と手をつかうことが有効なんだと感じて,
ただ「読む・書く」でも,知らず知らずに色々な方法で言葉に接近しているなとか,
それに,ちょっと脱線して,「書く」(=アウトプット)という一言をとっても,
まず手で書くとして,何で書くか(鉛筆か,シャープペンシルか(その場合ならどんな芯で,どんな種類で),
ボールペンやマジックなのか(これもまたペンによって書き味が全く違う)),
何に書くのか(また雑記帳に書くのか,捨ててもいいような裏紙に書くのか,
はたまたそれはお手紙かもしれない,そしてその紙の質によってペンの動かし方も変わる)でも,
同じようなことを書こうとしても,その内容や文体にかなり大きな差がでると思う。
それからアナログ以外にもデジタルで書くことも多い昨今ですが,
デジタルにしたって,パソコンのキーボードなのか(デスクトップかノートパソコンか,それにキーボードも種類によって打鍵の感じが全然違う),タブレットのフリック入力なのか,ガラケー携帯のボタンで入力するのか,ポメラで書くのか,これもまたそれぞれで書く内容は変わってしまう。
パソコンやタブレットでは,さらにそのアプリケーションが何なのかでもきっと変わるはずで。
メールなのか,ラインなのか,ツイッターに書くのか,こういうブログにするのか,フェイスブックでも違ってくる。
口で「書く」をするのでも,
それは会話なのか(それもまた相手によって話し方はいくらでも変わる),
朗読や音読なのか(それはどんな声でやるのか,読み方は,スピードは?),
歌の場合だってあるし,わたしはしないけど,詩吟もあって,それによってまた内容やその雰囲気は変わる。
同じように「読む」(=インプット)にも,きっと山ほどの場合が考えられると思う。
こっちはたとえば,文字の表記が,同じ意味の同じ言葉も,漢字かひらがなかカタカナかローマ字かで,
全く受けとり方が違う。フォントでも全く違うと思う。耳できいても,字面が重ならないこともよくよくある。(わたしはよく困る)
さらに誰かの発する言葉をきく場合は,その人その人ごとにも違うわけで。
単純に「読む・書く」にも,そのときどきに,そのそれぞれ,何通りも組合せがあって,
それでそのときやりたいことに一番有効なものは何なのか,考えてみたりして,
(ちなみにわたしはこういう文章を書くときは,パソコンのメモ帳で書くのが一番書きやすいと思っていて)
(でもまだ文章にもならないようなばらばら考えを整理するときは,雑記帳に好きなボールペンで書き殴るのが好き)
(思いついた変な詩みたいなものは,ガラケーの携帯の文字入力で作るのが有効だったりする)
ともかくも,あー言葉って,脳ってやっぱり不思議だなーと,そんなことを考えたのでした。
といっても,わたしは言葉や脳の専門家でも研究家でもありませんので,あくまでわたしの感覚の話です。
矛盾やおかしい点もたくさんあろうかと思いますが,お見逃しください。
それにしても,今回の沖縄の言葉と標準語のつながりに気がついたときや,
以前「ラテン語を覚えたい!」という中二病を発症して勉強していたときに,
ラテン語の単語が,知っている伊語や仏語や,英語にも似ているなー!と思ったときも感じましたが,
違う言語なのに,似ている言葉をみつけるとなんだかうれしくなりますね。(沖縄はべつに他言語じゃあないけど)
それから同じ日本語でも,この言葉はこの言葉が基になっているとか,
そういうことを知るのも無性にたのしさを感じる。
言葉はこんなに恣意的なのに(というか恣意的だからこそ)
そのつながりをみつけたとき,わけもなく喜んでしまうのかもしれません。
それはある意味,未知の動植物の進化図や同系種や生息地の分布をさがすような気持ちで,
つまるところ人類の頭が地球なのだとしたら,言葉は,そこに生息する無数の野生動植物みたいなものですね。
(外来語は,ようは外来種なわけで,組み合わさった言葉は,配合の結果で,なんて妄想は尽きない)
ということは,昨今ひろがる語彙や言葉の衰退の問題は,環境問題ということでしょうか。
そうすると,絶滅種や砂漠化や海面上昇はなにかしらリアル。トキの保護はなんでしょう。
いつもながらですが,結局なんのこっちゃ,ということで終わり。
まあ,言葉というのは考えるほどに新しくて飽きなくてとても面白くて大好きです,ということで,
これからも言葉とはずっとこうして付き合っていきたいです。
いまは日本語ばかりだけど,英語ももっと勉強して,
こんなことを考えられるようになりたいのがひそかな夢。
ということで英語もがんばろう,と自己暗示。
ちなみに歌の本番は6月15日16時ごろ@伊丹です。
歌うほかに,軽くおどったりハイヤイヤササしたり。よろしければどうぞ。
http://hyogo-jca.com/