歴史と言うものは風格あるものだと思っていたのに、テーマが昭和35年だと聞いて はぁ~? な気分になってしまったのだ。
このブースの一角にはかなり大きなターンテーブルがあって、それをくるりと回せば展示物が入れ替わる様な仕掛けになっているのだが、まさかその上にちゃぶ台やら おひつやら 鍋とかお釜とか、氷を入れて冷やす冷蔵庫やくるくるローラーのついた洗濯機なぞを並べるのではないかと恐れているのだ。
立派な舞台なのだ。
そうならこけら落としで、森光子さんの「放浪記」がやれそうなのだ。
しかも、そんなものでよければ徳島の実家に帰ればいくらでもありそうだ。
2階の内田修さんのコレクションとともに、ここで〈鶏〉コレクションが出来そうなのだ。
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いや、そんな事より驚愕したのは私の生まれた年がもう歴史と言う切り口で扱われる事だったのだ。「そうかぁ、私の人生はもう歴史の中に存在して行く時間を過ごしたのかぁ」と思ったのだ。
確かにもうすぐ半世紀の人生になるからなあ。
半世紀の中で偉業を成し遂げる人もいるのに自分は何してるんだろなあ、と思ったのだ。
長い時間を自分の快楽の為にだけ費やして、その時間のなかの記憶は私自身の消滅と共になくなってしまうのだろうなあとちょっと悲しくなる。
歴史発見される程のミステリーも存在しないのだ。
近くの踏切に飛び込み自殺した人は、30歳くらいの若い女性だったらしい。
30年の時間のなかでなにかしら歴史を刻む事が出来たのだろうか。
歴史にはじかれたまま轢死してしまったのではないのだろうか。
おわり。