こんばんは。
今日は「何もない日」でした。すこぶる天気がいい一日でした。
【30年】
ニュースでも流れ、再現ドラマも放送される予定の「地下鉄サリン事件」から30年とのこと。世界でも例をみない『凶悪事件』です。
過去、戦争のために開発された「化学兵器」や「毒ガス」などですが、それが戦争でもない所で、初めて使用されたのが「地下鉄サリン事件」です。
多くの犠牲者と、ケガ人を出しました。後遺症に悩まされている方も多いと聞いています。とんでもない事件です。
私が熊本に住んでいた頃。
仕事場は、熊本城の近くで、熊本市役所と道路を挟んで反対側に建つビルの7階でした。
その頃、前の道路を更新する『変な集団』を何度か見かけました。
白装束で、何人かが前の方で踊っていて。気持ち悪い集団。
その集団が、その後社会問題化し、国際的にもあり得ない「地下鉄サリン事件」というテロ行為を行った。長野県松本市でもサリンが撒かれました。
私が熊本に住んでいた頃に、「オウム真理教」は、熊本の山奥の土地に拠点を構えていました。その「気持ち悪かった集団」が・・・。
今、後継の組織である「アレフ」も要注意。若者の入信者が増えているとか。
なぜ、この様な集団ができてしまったのか。
なぜ、あれだけ高学歴の科学者、技術者ばりの人物まで集められたのか。
二度と、その様な集団が生まれないようにしないといけません。
【20年】
「福岡西方沖地震」から20年。
福岡県北西沖の玄界灘で発生したマグニチュード7.0、最大震度6弱の地震です。
震源地に近い、福岡市西区の玄界島で、住宅の半数が全壊する被害が発生し、福岡市内でも被害が出ました。
その地震から20年です。
地震発生の前日から、私は家族と長崎に車で旅行に出ていました。
当時、熊本に居た長女の車と家の車2台で、私達夫婦と、長女、長男、次女の5人での旅行でした。
1日目は雲仙方面を廻って、雲仙の小浜温泉に宿泊しました。
2日目は、朝からハウステンボスに行ったのですが。
午前中に、ショーに合わせて客席が揺れるアトラクションで、直前のある部屋で入場を待っていたのですが、立って待っている間に「揺れた」ような気がしました。観ると、非常口の天井から吊られた看板も揺れていました。
ただ、「揺れる」アトラクションなので、そのせいだと思っていたのですが。
アトラクションが終わって外に出て歩いていると、すれ違った人たちが『福岡で地震があったらしい』と話しているのが聞こえて。
2005年3月20日の10時53分に「福岡西方沖地震」が発生しました。
当時、またスマホはない時代ですが、私は会社で管理職をしていたこともあり、電話が繋がりにくい状況だったので、携帯のメールで、事業所の社員全員に安否確認をしました。
幸い、電話はだめでも、メールは使え、全員から安否確認がとれました。
かみさんは「慌てて帰っても状況変わらないから」と反対していたのですが、午前中でハウステンボスを切り上げ、帰路につきました。
佐賀県鳥栖市で、熊本に帰る長女と別れ、4人で当時住んでいた福岡県春日市へ帰ったのですが、これと言って大きな被害らしきものは道路沿いでは見られず、自宅に近ずくにつれ、途中の道路でジョギングしている人を見かけたり。
息子が友達から仕入れた情報では、結構激しい揺れだったとのことで心配したのですが、帰宅すると、マンション5階の自宅では、玄関の花瓶が落ちて割れていて、台所で食器棚から落ちた食器が数枚割れている程度でした。
翌日、仕事だったのですが、余震は続いていて、通勤で駅に行っても電車が運転見合わせしている状況もあり、博多駅方面に歩いて行ったのですが。
途中で余震が発生し、歩道の横の建物がミシミシ音をたてたりしていて、ちょっと怖い思いもしました。
また、その後の通勤時に、一直線にブルーシートが屋根にかけられた家が並んでいて。福岡市内から「警固断層」と言われる断層があるのですが、その断層に沿ってなのか、一直線に並んだブルーシートの列がありました。
そういう経験をした「福岡西方沖地震」から20年。
私達は、家族で旅行中で「福岡に居なかった」ことと、「家族が同じところに居た」ので幸いだったのですが。
地震はいつ起こるか分かりませんので、怖い存在です。
「大きな災害が起こりませんように」と言っても、起こってしまうのが日本なので、いかに備えるかが大事なのだと思います。
ただ、「喉元過ぎれば」でだんだんと記憶が薄れていくもので。
今日は、「春分の日」で休日でしたが、30年、20年の節目の日でもありました。
今は、サッカー2026年北中米W杯アジア最終予選のバーレーン戦を観ています。
では、また。
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