<過去記録(2007~2013年)>徳井由美子~ゆみりん・ブログ

ゆみりんこと、徳井由美子(ホーリー・ホーシー、他)の、これまでの過去ブログ記事を、ここに移設してきています。

愛すべき、自然、地元・・淀川ワンドと、地曳網!

2013-11-17 21:18:08 | イベント・行事・アウトドア
淀川ワンド!旭区の、お宝!わんどの地形の成り立ちについては・・今更説明しないでおこう。・・。

今日は、このような地曳網を使って、魚の種類を調査する日、とキャッチしたので、・・朝9時ごろから。


 みよ。この美しい風景・・
 

 菅原大橋と、秋の季節がら、ススキ!!この写真は、わんどの中州側から、撮影したのだ!
 

天然記念物指定、イタセンパラ(淡水魚)を、淀川に、戻そう!!!悲願~イタセン・ネット。
・・
折しも私、ちょうど昨日、学習センターで、受けた、「淀川・城北川の水質調査と生き物」という講座で・・自分なりに、以下のようにまとめてメモしてある。

『イタセンパラ(板鮮腹)について。・・高度経済成長により河川の水質低下の傾向の中、昭和44年に淀川で、発見され、熱心な市民の手により、やがて昭和49年に、”国の天然記念物”指定(魚類では、ほかアユモドキ、ミヤコタナゴ、ネコギギ(?と聞えた)の計4種。)される。しかし、水害に強い河川のための改修工事により、淀川流域のワンドが激減し、(城北ワンド(旭区)は、強い市民の要望で残った!)平成17年に、イタセンパラの姿は、淀川から消えたのでした(全国では、ほか富山県と、木曽川の2か所だけ)。
淀川に棲む魚の種類は、調査によると、90%前後が、ブルーギル等の、外来種!それを駆除して・・。研究所等で別途飼育していた500匹のイタセンパラを、9/25に公開放流!するつもりが・・台風で大荒れの後であったので、10/10に、放流しました。今、継続観察中です。また、自然棲息し始めるでしょうか?
ともあれ、4~11月の期間は、第1土曜と第3日曜の朝から、淀川の城北公園付近(菅原大橋下)で、ブルーギルはじめとする、外来魚の駆除、地曳網を実施します(明日、11/17日曜、朝9時ぐらい~。)イタセンパラが、無事に生息し始めているか。の観察とともに。』



おお・・朝9時すぎ、やや遅れて着いたら。・・昨日、センターで講義していた、水生生物センターの上原講師が、今日は自ら川に浸かって、地曳網(じびきあみ)の操作を、先導しておる・・。初めて見た。 また、周囲で見学してる市民の人に、適宜、説明を加えてくれる。熱いなあ!心意気が。
 

網にかかったうち、外来魚(ブラック・バス、ブルーギル、貝類)は、駆除!(つまり、水のないバケツに入れる・・) 在来種は、お水に入った方に、丁寧に保護・・のち、リリース。
気のどくなようなけど・・ 放置してたら、全体の90%が、ブルーギルとかの外来種だらけになってしまって、イタセンパラみたいな弱い魚は、絶滅(すでに、今いないんだから)してしまう!そしてこうやって、駆除(言い方わるいけどね・・)してバランス戻すことで、何割かは、在来種の割合と、種類が、ふえて来た、っていうのだから・・。

 ブラック・バスは、さいなら^^ ・・こういうたら、わるいけど、ほんっま、人(魚)相、ワルイんだから。アゴが突き出てます。


 在来種です。タナゴ、モロコ、・・けっこう、昨日の講義で、種類がわかりました。可愛いです。


 フナは、デカイですね・・35~40cmもある
  

 こういうカニ(モクズガニ)ってのも、海から泳いで上がってくるのです


イタセンパラは、この10月10日(予定では、9月25日だったか、台風のせいで、延期に!)に、初めての公開での500匹の放流以降・・いったい、ちゃんと、棲息始めているのか?今、追跡しているのだ・・。イタセンパラは、通常、秋に、二枚貝の中に産卵して、(親魚は大抵、その直後1年の寿命をもって、生涯を終える。)、稚魚は貝の中で春まで過ごし、5月ごろ、泳ぎだすとか。上手くいっていれば、今は、貝の中に、卵・・?。






旭基督教会での、チチ松村の母・松村牧師のご様子

2013-11-17 20:57:34 | 教会生活
朝9時~”城北わんど”(旭区、菅原大橋付近)へ、地曳網を見に行った、その足で、
予定していた、付近の 旭基督教会に、行く・・
松村さん(牧師、ゴンチチのチチ松村の母)にご用があったので、約束してた。
日曜だから、礼拝があるので、出席・・ここでは初めて。

松村さん(牧師)


新築された、旭基督教会・・




信徒を見送る松村さん・・。


故・辻中昭一牧師(享年86歳、逝かれる当日まで、現役牧師!)の追悼式に・・。

2013-11-17 20:39:43 | 教会生活
行って来てよかった・・今日大阪クリスチャンセンターで開かれた、「故・辻中昭一牧師」の、追悼式。

・・実は、・・行って、そこに出るまで。始まってしばらくしてからも。この方に、生前、”お会いした”という自覚が、まるでなかった私。なら、なぜ、出席したの?知らない故人の追悼式に、と。それは、聞くところによると、なんでも、この享年86歳のお方が、私が今、自宅で催し始めた、”(旭高殿)朝祷会(ちょうとうかい)”、にも関わってくる、最初に出席した朝祷会である、大阪旭朝祷会。の、開設のきっかけになった人、ということだったから。そして導きであると思いますが、今朝日曜の礼拝に初めてお邪魔した、旭基督教会、の主任牧師でもあったという。それで・・
 追悼式が始まり、遺影を見ても、まだわかってない私。しかし、進むにつれ、どうやら、86歳の最後まで、(京都の福知山・奥の)”夜久野キリスト教会”に、毎日曜、豊中の自宅から通われて(!行き道3時間、帰りは4時間かけて)牧会(牧師を)されていた、と知り、「なんか、ヤクノ教会、って聞いたような・・高齢の方で・・・」私の中で、もしや・・もしや、もしかしてあの方!・・辻中氏は、8月12日におなくなりになったということですが、・・この夏頃に、一度シェラトン都ホテル朝祷会(上本町)で、一回だけお会いしたことのある、あの人のような・・?!ちがうような、そうなような!?式が進むにつれ、どうやら、ますます確信が・・。あの1回だけ会った朝食時の交流で、お互い名刺を交換した、そこに”夜久野教会 牧師”○○ △△と書いてあったような気がする・・それで、すごく高齢なのに、片道3~4時間の道のりを毎週通って、しかもその教会で待っている信徒数は、たった2人か、いないこともある・・「(信徒がいない時は)その時はどうするのですか?」「自分1人で、礼拝を捧げてきます。」・・。私、思った、「高齢ですごくバイタリティあるけれど、・・(言葉わるくて、すみません)もしかして、もしかして、ずっとうだつの上がらない、隅っこを歩いてきた、地味な人?」と思うほど、その時の印象は、弱々しく、線が細く感じられたのです。・・無理もない!これが、この時であった、最初で最後のこの日は、この方にとって、・・人生の終わりになる日の、わずか3日前の日だったんです。その時の私は、しかし、86才でありながら、現役牧師!そして、ご自分の意志によって、そんな遠い少人数の所を牧してられる。という、主の僕たる在り方を見た思いで、非常に打たれ、感銘したのを覚えています。しかし、そのあとお別れしてからは、思い出すことはあまりなかったし、この3日あとに天に召されたとは、知る由もなかった。(名前を失念したからかもしれません)
 しかし、今日の追悼式が進むにつれ、ついに、追悼の語りの中で、「辻中先生は、なくなる3日前のシェラトン朝祷会でも・・」と語られたので、とうとう符号したわけです。!あれから3日後に、おなくなりになられてたのか・・。
 今日の、会場、OCCホールが、満杯(200~300人?)になるほどの、列席者。超教派のクリスチャンだけでなく、ボーイスカウト、各種学校方面やアジア関係、福祉?・・多方面にわたってのご活躍だったようで、私が受けた、私が受けた弱々しい印象とは全くちがった頼もしい回想録が次々・・。なにより、どこに、86歳で、没するその当日まで、現役牧師をやっていた、という人がそうそういるでしょうか・・。
 残された奥さま(同じく牧師)の最後の話から、「あなた、もうお歳ですから、スケジュールの入れ過ぎには注意されては?」と促されると、自分に言い聞かせるごとく、「わたしはな!神のしもべなんだ・・」「神様が、守ってくださる。」・・
夫人は、最後の数日の、先生の動向と最期について、詳細に語ってくれました。
8月初旬の、山口県で行われた、ボーイスカウトの大会にでられ、1週間くらい、雨天もあり、の野外活動。帰宅して休むことなく、翌日木曜に、八尾朝祷会で説教(朝祷会は、朝が早い)。翌・金曜日が、シェラトン朝祷会(これが、私がお会いした最初で最後の日)。そして、土曜日に、川西能勢で、活動。で、・・あくる日曜に、同じ様に、朝4時に起床し、(奥さまが眠られている隙に)京都福知山奥の、夜久野教会まで出かけ・・帰宅して、非常に疲れたご様子。その夜半、就寝中に、異様な大声を2回あげられた為、奥さまが様子を見に行くと・・両手を上げられた姿で、ご逝去されていた、ということでした。急性虚血性心疾患。86歳の、なくなるその日まで、現役牧師。パウロのように、信仰と伝道の道を走りぬいて・・そのまま召されたこの方の、人生の最後の最後にお目にかかり、このような立派な証をみることができて、たいへんすばらしく、よかったと思っています。