でも夢は曖昧なので、それで整理された記憶って大丈夫? と思いませんか?
実はもっと良い記憶の整理方法はあり、それが覚めて観る夢すなわち瞑想です。
両者の違いは、夢が大脳(獲得知性)を休眠させてるのに対して、瞑想では獲得知性(人格)を保ったままイメージの世界を歩ける事です。
それは観たい夢が自在に観れる世界で、昔の思い出を追体験の深さで夢見る訓練は、敬虔な仏教徒にとっては涅槃(バルドゥ)の試練に備えて行われます。
日本では既に死(バルドゥ)は、キリスト教の審判のイメージの方が強くなってる気がしますが、私としてはホトケのチャンスボールと捉えた方が徳があると思います。
それは、「生命は何度も何度も転生して上を目指して行く」と云った信仰です。
死の直後(バルドゥ)にその転生のチャンス(試練)が与えられ、人は天界や仏界へ登る道を行くトップランナーであるとされます。
「人まで登り詰めるのにどれだけの徳(転生)が積まれて来たか」がずうっと寺子屋の教えの中心で、それは今でもラダックやブータンなどで教育の基礎として捉えられています。
希聖はこうした瞑想法を行善から深く教わり、70歳にしてまだまだ海馬から神経細胞が活発に生み出される域に達していました。
自決した時も坐禅を組んで瞑想の態勢を整えており、それは死後もずっと保たれます。
しかし針金が右脳と左脳の海馬を貫いており、記憶の損傷は避けられません。
次回はその記憶の穴から湧き出して来る幻影について書こうと思い、「バルドゥ-トドル(読み聞かせ)」にはそれへの対応策が多く述べられています。