「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

武烈・継体について

2018-08-01 05:16:28 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

1  武烈天皇の旧辞は百済で無道を行った末多王の旧辞である。 
 日本書紀・武烈の暴虐・3年11月・において「この月に、百済の意多郎王が亡くなった高田の岡の上に葬った。」4年「この年百済の末多王が無道を行い、民を苦しめた。国人はついに王を捨てて、嶋王を立てた。武寧王が立った。」6年冬10月「百済国が麻那王を遣わして、調をたてまつった。天皇は、百済は長く貢物を持ってこなかったことをお思いになって、王を留め置いて返さなかった。」7年夏4月「百済王が斯我君を遣わして調を奉った。別に書状を奉って『前に調を奉った使の麻那は、百済の国王の一族ではありません。故に謹んで斯我を遣わして朝廷にお仕えさせます』という。その後、子が生まれて法師君という。これが倭君の先祖である。」とある。
私見
すべてこの百済の記述の間に意図的に暴虐が挿入されている。これは亡命百済人による後世の意図的改ざん挿入である。原古事記には武烈は普通の天皇としての旧辞が書かれていた。百済で無道を行った末多王の旧辞を挿入したものと思われる。末多王の名を武烈に書き換えている。悪いことはすぐ人のせいにする藤原氏の性格がよく表れている。百済であった王の悪行を倭国の天皇がしたように書いた。皇統が途絶えて他所から来た王を立てたのも百済であった。「国人はついに王を捨てて、嶋王を立てた。武寧王が立った。」とある。「麻那は、百済の国王の一族ではありません。」とあるが、慌てていて選定に間違いがあったのか、そうでなければ嘘をついて本当の王族の麻那を取り返そうという詐言かもしれない。百済人の言うことは信用できない。子供がなかったのも末多王のことであり改ざんである。


2  継体について
 天皇家は途絶えていないから「継体」という名は改ざんされた名である。倭国には、天皇になるための予備の一族(羽田氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏など)が13代武内宿禰天皇の時代から多くいたから、途絶えることはありえない。他国から探してくる必要はない。
 日本書紀・継体の擁立・2年12月に「南の海の中の耽羅人(済州島の人)が初めて百済国に使いを送った。」とある。
 この記述は百済王家には必要であるが、倭王朝の天皇の正統性を記録する原古事記には必要ない。これ以降は亡命百済人が挿入したものと思われる。百済の文字は37回、新羅は18回。日本は6回。任那は17回使われている。ここも百済を中心とした朝鮮半島情勢が書かれている。百済王家の同時代の歴史を混入させている。これを書きたいがために、武烈・継体の旧辞も巻き込んで改ざんしたものと思われる。日本書紀の武烈・継体の条で百済王家の歴史を書き綴ろうとした。天皇の名も後の改ざんと思われる。
 継体天皇は半島で殺されたという記述が日本書紀にある。

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