「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

蘇我氏三代は倭国(鳥取県中部)に皇居があった正統な天皇である

2018-08-02 06:41:19 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  蘇我馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあった。島の皇居の後ろには後宮があってもおかしくない曲集落の地域がある。
  元興寺伽藍縁起では等由良宮(豊浦宮)の字が3回使われている。豊浦宮の元の字は等由良宮であった。旧事本紀によると「AD580年 物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦(等由良)大臣を生む。名を入鹿連公と曰ふ」とある。
 蘇我入鹿は蘇我馬子の子であり、蘇我馬子は島大臣と呼ばれ、蘇我入鹿は等由良大臣と呼ばれていた。どちらも皇居のある地名である。蘇我馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあり、蘇我入鹿の皇居は鳥取県北栄町由良にあった。現在は北条島と由良宿になっているが、以前は島であり由良であった。奈良にあった等由良宮は四ノ宮か五ノ宮であろう。泊瀬は倉吉市中心市街地であり、蘇我稲目の皇居・泊瀬柴籬宮は打吹山の大江神社であった。
 随書には、600年高祖文帝の問いに倭国の遣使が答えた様子が描かれている。「倭王の名前は阿毎、字は多利思比孤。」比孤だから彦。男性です。「後宮に女、600~700人あり」とある。
 阿毎多利思比孤(アマノタリシヒコ)は蘇我馬子である。蘇我善徳(聖徳太子)はこのとき20歳であり、元興寺(飛鳥寺)の寺司になって4年しか経っていなかったが、翌601年に斑鳩宮の建造に着手した。608年、隋の倭国使たちを迎えるために蘇我馬子天皇とともに鳥取県北栄町島の皇居に帰っていた。北栄町島の皇居で隋の倭国使たちを迎えてから、蘇我善徳(聖徳太子)と隋の倭国使たちは馬で奈良の元興寺(飛鳥寺)まで行った。
 この時、大国維新之化(全国のインフラ整備)として奈良に藤原京や平城京を建設する打ち合わせもしたと思われる。

2  先代旧事本紀は日本書紀の焼き直しに思えるが、日本書紀と異なる記述や日本書紀にない記述があるので参考になるときがある。
 例えば蘇我入鹿についての記述「AD580年 物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公と曰ふ」とあるが、日本書紀では入鹿の父は蝦夷であるとする。蝦夷は馬子や入鹿や稲目などに比べて、影が薄い。日本書紀の蝦夷の記述は矛盾が多いので、蝦夷は実在しなかったと思われる。蘇我氏3代とは稲目、馬子、入鹿であった。
 蘇我入鹿の父は蘇我馬子であり入鹿の次の天皇は大臣とされている蘇我倉山田石川麻呂であった。

3  日本書紀・推古記「四年冬十一月(596年)法興寺が落成した。馬子大臣の長子善徳臣を寺司に任じた。この日から、慧慈、慧聰二人の僧が法興寺に住した」とある。
  蘇我馬子の造った飛鳥寺(元興寺)
 聖徳太子16歳の像と言われている。なぜ飛鳥寺に聖徳太子の像があるのか、聖徳太子は法隆寺ではないのか、と不思議に思ったが 「寺司に任じられた善徳が聖徳太子である」という説にたてばなるほどと納得できる。
 また、蘇我入鹿と蘇我善徳は同一人物とする説がある(どちらも蘇我馬子の長男となるため)。
  入鹿の首塚

4  日本書紀によれば、聖徳太子こと厩戸皇子は601年、飛鳥から斑鳩の地に移ることを決意し、斑鳩宮の建造に着手、605年に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。日本書紀には天智9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものである(ウィキペディアより)。
 
 法隆寺五重塔
 法隆寺夢殿
 おそらく法隆寺西院を再建したのは天武天皇であり、そのときに現在の伽藍配置になった。鳥取県琴浦町の斉尾廃寺も伽藍配置が現在の法隆寺西院と同じであり7世紀後半(白鳳時代)の創建であるので、天武天皇が創建したものと思われる。
 藤ノ木古墳
 法隆寺再建前の斑鳩寺は藤ノ木古墳と同時に造られたという説がある。

 おまけ
 法隆寺再建前の斑鳩寺は等由良大臣の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が建造した。


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