「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

蘇我稲目天皇は鳥取県中部(伯耆国)を活動拠点としていた

2018-08-02 06:12:54 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  日本書紀・欽明・秦大津父において「秋七月十四日、都を倭国の磯城郡の磯城島に遷した。名付けて、磯城島金刺宮といった。」とある。古事記では「師木島の大宮」である。

 日本書紀・欽明・仏教公伝において「蘇我稲目大臣(王)は小墾田の家に仏像を安置し、ねんごろに仏道を修めるよすがとした。向原の家を清めて寺とした。後に国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。役人は仏像を『難波の堀江』に流し捨てた」とある。

 日本書紀・欽明・難船の高麗使人において「夏四月二日、天皇は泊瀬柴籬宮においでになった。」「この月、天皇は泊瀬柴籬宮より帰られた。」とある。
 日本書紀・欽明・伊企儺の妻大葉子において「狭手彦は、鎧二領・金飾の大刀二口・銅鏤鐘三口・五色の旗二竿・美女の媛と従女吾田子を蘇我稲目大臣に送った。大臣は二人の女を召し入れて、妻として軽の曲殿に住まわせた。」とある。
 日本書紀・欽明・聖明王の戦死において、蘇我稲目は百済(新羅)王子の弟恵(法興王の王子)に対して「むかし、雄略天皇の御世に、百済(新羅)が高麗に攻められて、累卵の危きにあった。その時天皇は朝廷の神祇伯に命じて、策を神々にお尋ねになった。祝者が神の言葉を告げて『始め国を建てられた神を請い招いてお祈りし、亡びそうな国主を救えば、必ず国が鎮まり、人々も安らかであろう』といった。これによって神をお招きし、行って百済(新羅)を救われた。こうして国は安らかとなった。尋ねみると国を建てた神とは、天地草創の頃、草木も物語した時に、天から降られ国家を創られた神である。聞くところによるとあなたの国(新羅)では、祖神を祀らないということですが、今まさに前科を悔い改めて、神の宮を修理し、神霊を祭られたら、国(新羅)は栄えるでしょう。あなたはこれを決して忘れてはなりません」といった。

2  日本書紀・推古・蘇我馬子の葛城県の要請とその死・において、冬十月一日、大臣馬子は、阿倍連と阿倍臣摩侶の二人に天皇に奏上させ、「葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます」といった。推古は「いま、自分は蘇我氏から出ている。馬子大臣はわが叔父である。今わが治世に、急にこの県を失ったら、後世の帝が『愚かな女が天下に君として臨んだため、ついにその県を亡ぼしてしまった』といわれ、後世に悪名を残すことになるだろう」として許されなかった。

3  私見
 蘇我稲目天皇は鳥取県中部(伯耆国)を活動拠点としていた。
  1はすべて、欽明の旧辞として書かれているが、この時の天皇は蘇我稲目天皇であった。
(1) 磯城(師木)は東郷池周辺である。海抜1mに海面があった(600年頃)東郷池の地形を見ると、現在の龍島が島であった痕跡が見える。蘇我稲目大臣(大王)の磯城島金刺宮は湯梨浜町龍島にあり、崇神天皇の水垣宮は湯梨浜町長和田集落にあり、応神天皇のもう一つの難波大隅宮は湯梨浜町小鹿谷にあった。
 東郷池に島はないため磯城島金刺宮の比定地は見つからないと思っていたが、水面が1m高いと龍島が島になるのでここに蘇我稲目大臣(大王)の磯城島金刺宮があったと思われる。以前は龍頭と表示されていた。

 「難波の堀江」は九品山大伝寺の前である。役人は仏像を難波の堀江に流し捨てた。本田善光はここで仏像を引上げて信州に持ち帰った。

(2) 泊瀬は長谷であり、倉吉市中心市街地周辺であった。蘇我稲目天皇は同じ泊瀬の山(打吹山)にいた雄略天皇の事績を持ち出している。蘇我稲目天皇の皇居である泊瀬柴籬宮は泊瀬の山(打吹山)にあった。
 欽明(蘇我稲目天皇)の皇居の泊瀬柴籬宮は倉吉市打吹山の大江神社と思われる。

 大江神社
 由緒 「明治13年賀茂神社に合祀されていたが、この地に大正2年奉還した。」とある。
もともと祭神の大江磐代君は湊町の生まれであり、賀茂神社に合祀されていた。なぜ賀茂神社よりまだ遠いこの地に持ってきたのであろうか。もともとこの地に神社があったのを転用したと思われる。この地は欽明(蘇我稲目天皇)の皇居であった。
(3) 蘇我氏の出自は鳥取県中部の葛城地方(北栄町原集落元の神社に蘇我氏の祖の武内宿禰天皇の皇居があった)であった。
 葛城とは葛城山(蜘ヶ家山)と日向(四王寺山と葦原中津国)を含む鳥取県中部の地域である。
 軽は向山と土下山周辺である。向山の麓の三明寺集落を向原と言っていたはずである。曲という地名もある。
 実在しない推古天皇に、そこにいるかのように演技をさせる不比等たちの文章力のうまさには敬意を表する。
 原古事記には「蘇我馬子天皇は葛城県は倭王朝の本貫だから、これより以降は天領とする」と書いてあったと思われる。天領にするかどうかは天皇でなくてはできないから、それを消すためにこの物語を挿入したと思われる。誰が姪かくらいは言わなくても馬子には判っている。あえて書くのは先に書いた続柄は嘘でしたと白状しているようなものである。蘇我氏の本貫が葛城県であることはそのまま転用した。
 蘇我氏の出自は天照大御神やニニギ命の降臨した鳥取県中部(倭国)の倭王朝の正統な流れであった。蘇我氏3人とも立派な天皇の名前であったはずである。


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