「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

第12代景行天皇、第13代成務、第14代仲哀(248年頃から354年頃まで)について

2018-07-30 09:33:38 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

 12代景行・13代成務・14代仲哀について

1 12代・13代・14代はのちに潤色されている。
 「ヤマトタケルに秘められた古代史」において崎元氏は「古事記において、神武記以降各天皇の冒頭は「〇〇の命、〇〇の宮に座しまして天下を治らしめしき」から始まるが景行記に至って「オオタラシヒコオシロワケの天皇、纒向の日代宮に座しまして天下を治らしめしき」となっている。〇〇の天皇という表現は、ワカタラシヒコ(成務)天皇、タラシナカツヒコ(仲哀)天皇と続く。次の15代から「〇〇の命」という表現に戻っている。12代・13代・14代はのちに潤色した痕跡がはっきりと残っている」とされる。
 12代・13代・14代は潤色・改ざんされ、実在しないとされる根拠となっている。

2 第12代景行天皇の実在性には疑問が出されている。
 書紀では、半分以上が子の日本武尊の征討伝説に充てられており、景行天皇自身に纏わる話はかなり少ない。古事記にいたっては、事績のほとんどが倭建命の征討伝説に割かれており、景行天皇自身に纏わる話は全くと言ってよいほど出てこない。
 書紀に「紀伊国に行幸されて、諸々の神々をお祭りしようとされたが、占ってみると吉と出なかった。そこで行幸を中止された。屋主忍男武雄心命を遣わして祭らせた。武雄心命は阿備の柏原にいて、神々を祭った。そこに9年住まれた。紀直の先祖菟道彦の娘影姫を娶って武内宿禰を生ませた」とある。崎元氏はこの記述をおかしいとされ、12代は屋主忍男武雄心命であるとされる。私も同感である。
※ 私 見 
⑴ 「タラシ」は百済王に使われていた名前である。「タラシ」は舒明、皇極の名前にも含まれるが、舒明、皇極も百済王であった。   
⑵ 記紀における景行天皇の段は2世紀後半の倭国大乱における倭建命(開化天皇)や孝霊天皇の旧辞が多くを占める。別稿「因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と…」を参照されたし。
 たとえば、古事記・倭建熊襲を伐つ・倭建出雲を伐つ・倭建東国を伐つ・望郷歌・白鳥や、日本書紀・諸族土蜘蛛(ここの天皇は孝霊天皇である)・熊襲討伐(ここの天皇とあるのは女王卑弥呼であり、相手に名を問うたり質問したりの事績が含まれている。「倭姫命世記」は各国を巡り国名を問うている。「倭姫命世記」は原古事記の同じ段にあったと思われる。)・日本武尊出動・日本武尊再征(このとき日本武尊が賜ったのは将軍の位ではなく天皇の位であった)・弟橘姫・日本武尊病没(昼夜むせび泣き胸をうって悲しまれた天皇とは女性特有の動作であり、一緒に全国を巡行していた姉の女王卑弥呼と思われる。伊勢とあるのは志摩であり、神宮とあるのは卑弥呼の開いた伊雑宮のことである)は藤原氏以前に列島を統一した王朝があったことを隠すため欠史8代を作ったが、その旧辞は景行天皇の段に入れ込んだ。
 古事記・白鳥・では「倭建の白鳥は志幾(しき)に行ってとどまった」とある。志幾(しき)は鳥取県湯梨浜町の東郷池周辺のことであり倭建命はここで生まれた。
 東郷池にはコブ白鳥がおり、最近コブ白鳥のヒナが生まれた。「それゆえ、この土地に陵をつくって、魂を祭った。この陵を白鳥の御陵と言う」とある。白鳥の御陵は鳥取県湯梨浜町宮内(孝霊天皇一族)の池辺にある狐塚古墳(前方後円墳)と思われる。全国と半島を一緒に巡行した倭姫命(卑弥呼)の前方後円墳(安楽島町の松の鼻古墳)の前方部が水辺に接している形状は狐塚古墳と同じである。
 倭建命の「大和(ヤマト)しうるわし」のヤマトは生まれ故郷の鳥取県中部(倭)である。皇居のあった北栄町の瀬戸から中国山脈を見て詠んだ歌であった。
 魏志倭人伝には卑弥呼が亡くなって立った男王の出来が悪くて千人が誅殺しあったが十三歳のトヨを立ててようやく収まった、とある。この男王は屋主忍男武雄心命と思われる。屋主忍男武雄心命(景行天皇)の妹は豊鋤入姫命(台与)であり、倭姫命(卑弥呼)ではない。日本書紀と倭姫命世紀は順番を入れ替えている。
 景行天皇は百済王であり、12代倭国男王は13代武内宿禰大臣(大王)の父の屋主忍男武雄心命であった。

3  第13代成務  記紀ともに記述は少ない。
 稚足彦天皇は実名らしくない名前であり、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史八代よりもこちらの方が実在の可能性が低い。
 書紀には「天皇崩ず。時に107歳」とあるが、成務元年は39歳であり、成務60年に死亡しているから、98歳で死亡しているはずである。
 書紀は「大臣は、成務天皇と同日生まれの武内宿禰である」とする。年月が違っていたら珍しくもない(確率は30人に1人)のでわざわざ書かない。ここでは生年月日を同じとし、百済王成務に倭国大王との共通点を見つけ示したかったのである。武内宿禰は後の蘇我氏と同じく大王であったと解する。
 改ざんであり皇居の近つ淡海の志賀高穴穂宮も空想上の宮である。稗田阿礼は場所を特定するためより具体的に表現する。第13代天皇は武内宿禰であり皇居は葛城山(蜘ヶ家山)の麓の北栄町原の元の(野)神社にあった。

4  第14代仲哀、身長一丈(約3メートル)。仲哀天皇非実在説あり。
 足仲彦天皇は実名らしくない名前であり、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史八代よりもこちらの方が実在の可能性が低い。
 皇居とされる穴門豊浦宮・筑紫橿日宮は空想上の宮である。この間、纏向は使われていたが都ではない。都は鳥取県中部(湯梨浜町松崎)に戻っていた。
 仲哀天皇は倭建命の第2子とされる。成務18年に誕生したことになっているが、成務18年は父とされる倭建命が亡くなって37年後である。
 日本書紀・神の啓示・において「熊襲国よりも勝って宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩い金・銀・彩色などがたくさんある。これを栲衾新羅国という。」とある。新羅を西の国とするが、鳥取県中部からは新羅は西の国だが、九州北部からは北の国である。これは、原文をそのまま写したからである。
 仁徳天皇は武内宿禰天皇の4男平群木菟と思われる。書紀は「第16代仁徳天皇と武内宿禰天皇の4男平群木菟は同じ日に生まれた」とする。年月が違っていたら珍しくもない(確率は30人に1人)のでわざわざ書かない。ここでは生年月日を同じとし、百済王仲哀に倭国大王との共通点を見つけ示したかったのである。
 武内宿禰は仁徳天皇に仕え220歳(一番短い「水鏡」でも)まで生きた、とする。それでも寿命が長すぎておかしい。第14代仲哀天皇非実在説がある。第14代天皇は、仲哀天皇ではなく武内宿禰天皇の4男平群木菟であった。天皇名は仁徳天皇であった。
 14代仁徳天皇の皇居は難波高津宮で高いところにある。難波の枕詞は「押し照るや」である。水面に陽光がキラキラした情景が見えるところである。これは鳥取県湯梨浜町の松崎神社であった。

 


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