「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

野口王墓古墳は八角墳であり、天武天皇の陵墓ではない。キトラ古墳の被葬者は高市大王であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である

2019-08-16 06:21:51 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

 野口王墓古墳は八角墳であり、天武天皇の陵墓ではない。キトラ古墳の被葬者は高市大王であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である。

1 野口王墓古墳は天武天皇の陵墓ではない。天武天皇は倭国王であり、倭国王の陵墓は円墳か前方後円墳である。

 

 御廟野古墳は八角墳であり、百済王の古墳である。天智は百済王であり、御廟野古墳は天智(豊璋)の古墳である。

 天武天皇の父は蘇我善徳大王であり、その陵墓は藤ノ木古墳であり、円墳である。天武天皇の子の高市大王のキトラ古墳も円墳である。また、天武天皇の子の忍壁大王の高松塚古墳も円墳である。天武天皇は倭国大王であり、その陵墓は円墳である。野口王墓古墳は八角墳であり、倭国王の天武天皇の陵墓ではない。


2  キトラ古墳の被葬者は高市大王である。
 現在は工事中である。
 キトラ古墳は平成28年度に開園予定である。

3  高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である。

 高市大王の次は忍壁大王であった。
 
4  私見
(1) 忍壁大王の皇居は鳥取県中部にあり、青谷で女子群像の描かれた木板が出土したが、何もおかしくはない。当時、都であった鳥取県中部に属していた鳥取県青谷町から高松塚古墳の彩色壁画によく似た女子群像の板絵が見つかっても不思議ではない。

 青谷横木遺跡で墨で描いた女子群像の板絵が出土したことについて、百橋教授は「中国大陸や朝鮮半島の墓葬文化が日本では都の奈良以外にも波及していた可能性を示す史料」とし、他地方でも次々見つかるであろうとするが、都は鳥取県中部であったから青谷で見つかるのは当然としても、他地方で見つかることはない。
(2) 大伴家持の奈良(?)の都大路を思って詠んだ歌「春の日に はれる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ」などで、都に通ずる道路には柳の街路樹があることが明らかとされていたが、鳥取県の青谷横木遺跡で柳の街路樹跡が全国で初めて見つかった。
 その解説として「平城京の朱雀大路(?)には柳の並木が植えられていた。地方(?)の街道にも街路樹が植えられていたことを裏付ける」とする。


 大伴家持は父旅人から都(16歳=734年まで鳥取県中部が都)のことを聞いて育っていたし、越中国に赴任する746年(28歳)までに鳥取県中部にも来ていた(難波高津宮=湯梨浜町松崎神社にも来ていた)ので、大伴家持の歌う「都」とは鳥取県中部のことであった。
 平城京の朱雀大路で柳の街路樹跡が見つかることはない。
(3) 倭国が指名した天武天皇の次は高市大王であり、次は忍壁大王であった。兄弟承継は過去にもあったことでありおかしくはない。「孝元・開化・崇神」、「仁徳・応神」、「履中・反正・允恭」、「安康・雄略」は兄弟承継であった。彩色古墳は現在のところ2つしか見つかっていないが、被葬者が大王にふさわしいすばらしいものである。高市王子も忍壁王子も大「臣」になったとされているが、それは亡命百済人の藤原氏が倭国の大王を下僕として描くための改ざんであり、高市王子も忍壁王子も大「王」であった。
 持統や文武の古墳を高市大王(696年没)や忍壁大王(705年没)の古墳よりもりっぱなものを造ることが難しいため、火葬にしたことにした。盗掘して壊そうとしたのは藤原氏である。キトラ古墳の獣頭12神図は統一新羅(668年~)に似たものがある。どの学者も日本書紀に騙されているのでこのことを指摘しない。
 キトラ古墳を描いたのは倭国(鳥取県中部)に来ていた統一新羅の職人である。倉吉市大原を流れる川を志(新)羅谷川といい、倉吉市駄経寺町にあった天武天皇の造った大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)(663年~)は新羅様式であった。倭国(鳥取県中部)に統一新羅の職人が来ていたのであり、統一新羅の職人は奈良でキトラ古墳の彩色を手掛けた。同じく高松塚古墳(705年の数年後)も高句麗の職人ではなく、倭国(鳥取県中部)から派遣された統一新羅(668年~)の職人によって描かれた。


 
 

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