「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であった

2019-07-25 10:05:19 | 邪馬台国・卑弥呼
1  讃岐国における倭迹々日百襲姫命の農業開発
 香川県の説明板によれば、倭迹々日百襲姫命は土地の人に弥生米をあたえて、水路を開き、日照に苦しむ人々のために雨祈で、雨を降らせ、水源を教え、米作りを助けたといわれている。
 倭迹迹日百襲姫命は農業・水の神と伝えられている。香川県は全国有数の雨の少ない県である。そのために溜池が多い。讃岐国でため池を作ることを最初に思いついたのは倭迹迹日百襲姫であることも考えられる。そうなれば、讃岐国で、農業の神として祭られている理由も説明がつく。
 当時の讃岐国は凶作の年が続いていた。彼女のアイデアで次々と農業開発が行なわれ人々の生活は次第に潤っていった。このときに溜池を作ることを考え出したものと思われる。

2  志摩国における倭姫命の農業開発(倭姫命世紀より)
 「倭姫命は鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まずかまびすしかったので、『此、あやし』と宣して、大幡主命と舎人の紀麻良を、使に遣って鳥の鳴く処を見させた。行って見ると、志摩国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、根本は一基で、末は千穂に茂ってゐた。その稲を白真名鶴がくわへて廻り、つついては鳴き、これを見あらわすと、その鳥の鳴声は止んだ。
 倭姫命がのたもふに、『恐し。事問はぬ鳥すら田を作る。天照皇太神に奉れる物を』と詔して、物忌(ものいみ)を始められ、かの稲を伊佐波登美神(伊射波神社の祭神)をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。その穂で大幡主の女子乙姫に清酒に作らせ、御餞に奉った。かの稲のおひし地は、千田となづけ、志摩国の伊雑の方上にある。その処に伊佐波登美(伊射波神社の祭神)の神宮を造り奉り、天照皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。かの白真名鶴を名づけて大歳神といふ」とある。

3 磯部町千田御池跡の説明板
 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)もこの地に遊覧し感嘆され、多くの殿堂を建てられた。

4 磯部の伊雜宮
  磯部の伊雜宮本殿
  磯部の伊雜宮本殿 
 シンプルで敷地も広くないので、藤原氏の手はそれほど加わっていないものと思われる。
 ここにも心の御柱がある。「中央の祠は遷宮のときに心の御柱を立てる目印である」と伊雜宮の宮司は言った。こちらが本家である。
 伊雜宮より280m離れたところにある千田の御池跡 溜池か苗代であったと思われる。
 この後ろに持統が造らせた勅賜門(正月7日間だけ開く不開門)があったらしいが崇りを封ずるための藤原氏によるものである。
 伊雜宮の南に隣接する御料田で6月に行われる伊雜宮の御田植祭は日本三大御田植祭に数えられている。(伊雜宮前の説明板より) 
 鳥取県琴浦町方見神社の由緒には「当社は明治維新まで天照皇大神宮と称せし。当社には往古より大田小田と称する神田あり。大田は朔日田と唱え9月1日この田の稲を神供に炊ぐ。小田は毎日田と唱え、この田の稲をもって部内諸神に供す。氏子の内より13歳未満の女子12人を挙げ、神酒上げ神饌炊ぎとす。これを「三ケノオコラ」という。永久に相伝う。この田を植える時は御田植祭を行い官丁を課当せられしこと当社の伝記および古文書に明らかなり」とある。
 本当の天照皇大神宮ならば御田植祭があるはずである。伊雑宮にはあるが伊勢神宮にはない。
 大正末期、この石の下から鏡や勾玉が出てきたが官憲に持ち去られこの地の鑑定は封じられてしまった。里人は倭姫さんの遺跡であろうという。(説明板より)

5 倭迹々日百襲姫命は死んでいない。箸で死ぬことはまず考えられない。魏志倭人伝にあるようにこの当時箸はなく倭人は手で食べていた。これはなんでも強奪することに喜びを感じる扶余族(百済人)の藤原氏による改ざん挿入である。伊勢神宮の由来書にある倭姫命世記で垂仁天皇皇女にしてある倭姫命が実は孝霊天皇皇女の倭迹々日百襲姫命だったと思わせないようにするために死んだことにした作り話であった。系譜を先に改ざんして、そのあとの辻褄合わせのために箸をついて死んだ話を挿入した。こうして、藤原氏は倭国の歴史を強奪する。
 倭迹々日百襲姫命も倭姫命も水田稲作を普及させていた。倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であり、同一人物と思われる。
 
6 鳥取県日光村の隣り合う神社の祭神の孝霊天皇と天津神の稚日女命より、稚日女命は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命であった。

 稚日女命は鳥羽市安楽島町の伊射波神社を終の棲家とした。伊射波神社では海女がアワビを朝廷にもっていく前に稚日女命に献上していた。その朝廷とは纒向にあった朝廷であった。

 倭姫命は巡行の最後に志摩市磯部町の伊雑神社に至り伊射波登美に天照大神を祀らせた。倭姫命は海女の祖のお弁にアワビを献上された(海士潜女神社由緒より)。

 同じ志摩国の同じ一之宮の同じ読みの神社(いざわ)で同じくアワビを献上された姫は同一姫であったと考えるのはおかしくない。稚日女命と倭姫命はアワビの殻が多く見つかった纏向遺跡と同時代の姫であった。
 したがって、倭迹々日百襲姫命=稚日女命=倭姫命となる。

7 倭姫命は倭迹迹日百襲姫命であり7代孝霊天皇の皇女だが、なぜ倭姫命世記は11代垂仁天皇の皇女としたのだろうか。
 もし、倭姫命世記に豊鋤入姫の巡行がなくて倭姫だけの単独の巡行だけだったらどうだろう。纒向から隠れるような位置にある宇陀から始まり、段々と遠のいていく倭姫の巡行は纒向を意識して巡行していることがわかる。纒向で全国の代表者を集めて祭祀をするのだが、その前に倭姫の安全な居所を探す必要がある。藤原氏より以前に全国はすでに統一されていたことがわかってしまう。藤原氏はこれを消さなければならなかった。そのため纒向の近くに三輪神社を造り、豊鋤入姫が三輪神社に帰ってきて、バトンタッチしたような物語を造った。だから豊鋤入姫→倭姫にしなければならなかった。しかし、欠史八代にしてはならないから、豊鋤入姫を10代の皇女とし、倭姫を11代皇女とした。

 別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。本当の巡行地をみると倭朝廷(鳥取県中部)に深く関係していた一族のいた地域であることがわかる。豊鋤入姫の巡行は目的も時代も別の巡行だったことがわかる。倭姫が亡くなったことにより、悲観して誅殺し合っていたのである。

 

 


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