「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

「山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)」説について

2020-12-15 06:23:04 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

1 「古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)」説について

⑴ 「紀」は、古人大兄皇子と大海人皇子の二人だけに共通するキーワードを用いている。「仏道修行」である。「仏道」とは、「仏教と道教(神道)」を組み合わせた語であり、「紀」では二人に対してだけ使われている。 「紀」で仏教だけを指す場合は、「仏法」と書かれている。

⑵ このように、「紀」は天武天皇が古人大兄皇子に近い人物だったと臭わせているので、古人大兄皇子と天武天皇を同一人物とする説がある。「神皇正統記」は「不明な天武天皇の前半生に古人皇子を継ぎ足した」としている。

⑶  私見
 古人大兄皇子は、蘇我入鹿が中大兄と中臣鎌子(藤原鎌足)に暗殺された時、「韓人が鞍作臣を殺した」と言って、中大兄と藤原鎌足が韓国(百済)の人であることを証言した。
 古人大兄皇子は入鹿殺害の現場に立ち会っていた。この古人大兄皇子は誰であろうか。
 古人大兄皇子は蘇我馬子と蘇我善徳が創建した法興寺で頭を丸めて吉野へ逃げた。
 古人大兄皇子については、母親の父が蘇我馬子というだけで法興寺を自分の寺のようにして剃髪するだろうか。母方の祖父の家に行くのは大人になればなるほど抵抗がある。ここは父方の祖父が法興寺を創建した蘇我馬子と考えるべきである。
 古人大兄皇子のとった行動は、大海人皇子(天武天皇)が中大兄の策略を見抜いて吉野へ逃亡したのと瓜二つである。中大兄から逃れた大海人皇子(天武天皇)が吉野へ入る前に落ち着いたのが、蘇我馬子の邸宅「嶋庄の宮」であった。大海人皇子(天武天皇)についても、吉野に行く前に蘇我馬子の邸宅に泊まっているので、蘇我馬子の直系と考えるべきである。
 古人大兄皇子も大海人皇子(天武天皇)も、帝位(皇位)につくよう勧められたがそれを辞退して舎人に刀を解かせて仏道を修行するため僧侶になり、吉野に行っているので同一人物とみるべきである。古人大兄皇子は大海人皇子(天武天皇)と同一人物であった。

※ 参考
古人大兄皇子
 蘇我臣入鹿は独断で上宮(聖徳太子)の王たち(山背大兄王)を廃して、古人大兄(舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の娘)を天皇にしようと企てた。
 天皇は大極殿にお出ましになった。古人大兄がそばに侍した。・・・中大兄は平伏して奏上し「鞍作(入鹿)は皇子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」といった。
 佐伯連子と稚犬養は入鹿臣を斬った。古人大兄は私宅に走り入って人々に、「韓人が鞍作臣を殺した。我も心痛む」といい寝所に入ってとざして出ようとしなかった。
 軽皇子は古人大兄に譲って「大兄命は舒明天皇の御子です。また年長です。この二つの理由で天位におつきになるべきです」といわれた。すると古人大兄は座を去り、退いて手を胸の前で重ねて「私は出家して吉野に入ります。仏道の修行(仏道修行)につとめ、天皇の幸せをお祈りします。」と言われお断りになった。言い終わって腰の太刀を解いて地に投げ出された。また舎人らに命じて、みな太刀をぬがされた。そして、法興寺の仏殿と塔との間においでになり、みずからひげや髪を剃って袈裟を召された。 
大海人皇子(天武天皇)
 天智天皇は東宮に皇位を譲りたいといわれた。そこで辞退して、「私は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。願わくば陛下は、皇后に天下を託して下さい。そして大友皇子を立てて、皇太子としてください。私は今日にも出家して、陛下のため仏道を修行(仏道修行)することを望みます」と言われた。即日出家して法服に替えられた。それで自家の武器をことごとく公に納められた。
 吉野宮に入られることになった。左大臣・右大臣および大納言らがお見送りした。この夕方、嶋宮(明日香村島の庄の離宮)へお着きになった。翌日吉野へお着きになった。このとき多くの舎人を集めて、「自分はこれから仏道に入り修行(仏道修行)をする。自分と一緒に修道しようと思う者は留まるがよい。朝廷に仕えて名を成そうと思う者は、引き返して役所に戻るように」と言われた。しかし、帰るものはいなかった。

2 「山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)」説について
 私は、聖徳太子=蘇我入鹿=蘇我善徳とする(「聖徳太子=蘇我入鹿=蘇我善徳説について」を参照されたし)ので下記のような図となる。

 聖徳太子は山背大兄皇子を次期天皇に推していた。蘇我入鹿は古人大兄皇子を次期天皇に推していた。
 一人の人物が次期天皇候補に推す人数は普通一人である。聖徳太子と蘇我入鹿は同一人物だから次期天皇に推薦する人物も同一人物となり、山背大兄皇子=古人大兄皇子となる。山背大兄皇子は聖徳太子の子なので、古人大兄皇子は蘇我入鹿の子となる。古人大兄皇子は蘇我入鹿と一緒に殺害の現場に来ていた蘇我入鹿の子供であった。
 また、前述の結論より、山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)となる。聖徳太子=蘇我善徳だから大海人皇子(天武天皇)は蘇我善徳の子となる。
 蘇我果安は蘇我倉麻呂の子で、「紀」は吉野に行くのを見送ったとし近江朝廷側の一人とする説が有力だが、蘇我果安を蘇我善徳の子とする文献(中田憲信「皇胤志」・鈴木真年「史略名称訓義」では蘇我善徳の子とする)もある。ストレートに書くと今まで蘇我善徳を隠してきたことが無駄になるので、「紀」はここでも大海人皇子(天武天皇)に近い人物として一人二役をさせていた。蘇我善徳の子に大海人皇子(天武天皇)にふさわしい人物はいない、として調査をあきらめさせる効果を狙っている。
 山背大兄皇子も古人大兄皇子も蘇我果安も死に方が「自害」で同じである。藤原氏はよほど、天武天皇に死んでほしかったと見える。
 結論
(父)聖徳太子=蘇我入鹿(蝦夷)=蘇我善徳
(子)山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(蘇我果安=天武天皇)
  山背大兄皇子殺害事件は乙巳の変というテロ行為を正当化するために創作された一人三役の創作物語であった。


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