「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

古事記・日本書紀について

2018-05-09 05:40:15 | 藤原氏
1 古事記序文に「そこで天武天皇は『私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただ今この時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年も経たないうちに、その正しい趣旨は失われてしまう・・・』」とある。
 諸家とはだれのことか。藤原氏は亡命百済人(扶余族)である。扶余族は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」(三国志魏書・高句麗伝)。扶余族は強奪に喜びを感じる一族である。人・物・金品だけでなくなんでも強奪する。名前・系譜・歴史・地名も強奪する。642年に倭国に来た百済人の翹岐は中臣鎌足と名乗った。中臣の名前と系譜を強奪した。橘を立花に変えさせて橘姓を名乗り、難波を南場に変えさせて難波姓を名乗り、安倍を阿部に変えさせて安倍姓を名乗った。古事記・日本書紀の系譜も出鱈目である。天武天皇のいう「帝紀と本辞」を強奪したのは亡命百済人の藤原氏(扶余族)である。倭国の歴史を強奪したのも藤原氏(扶余族)であった。そして出来上がったのが古事記・日本書紀である。
 
2 唐曾要(旧唐書)には倭国と日本(百済王朝)は別に書かれている。唐の時代(660年~734年)列島は二朝が並立していた。
 倭は「古の倭奴国なり。新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏」とある。さらに「日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て、名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。」とある。
 初めて「日本国からの使者」を名乗った人物は、中国から疑われた。「倭国の別種」とは、「倭国にあるが倭人の国ではない」という意味である。
 ついで「新唐書」の日本国伝にも、「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。」とある。
 日本という国号は近江に逃げていた天智(豊璋)が669年に立案しているので、亡命百済王朝による遣唐使は673年までの間に行われている。
 徐福は中国皇帝を表面上は立てていたから、その子孫の歴代大王も中国皇帝に朝貢していた。中国は日本国からの使者に対し、数百年の間朝貢してきた倭国王との連続性に疑問を抱いた。「日本国と名乗り倭国と連続していない」と思ったらしいことが旧唐書倭国日本伝に現われている。日本国の使者は亡命百済人が倭国を乗っ取って日本国と名乗ったのだとは言わなかった。しかし、態度が横柄であったため、中国皇帝の理解を得ることはできなかった。どういう態度だったかは公家(藤原氏)によって派遣された横浜鎖港談判使節団(1864年)の池田長発の写真を見ればわかる。
 日本(百済)は中国から連続性を疑われていたので始祖から連続した天皇家(万世一系の皇統)の歴史書を作る必要性を生じ、ちょうど712年に天武天皇が編纂を命じた倭国歴史書原本が献上されたので、不比等はこれを利用しようと考えた。そして出来上がったのが日本書紀である。

3 蘇我馬子大王と聖徳太子(蘇我入鹿大王)は天皇記・国記を作っていたというが、乙巳の変で燃やされてしまった。天武天皇の時代になって、正統な天皇家の歴史を残さなければならないという必要性を生じ、倭国歴史書の編纂を命じた。
 国家元首の正統性を示すための歴史書に「一書に曰く」などという無責任な書き方はしない。したがって、日本書紀は百済(日本)から来たものが、基本となる歴史書を参考にしながら文章を切り抜き、あちこちに張り付けて書き換えた歴史書である。

4 日本書紀には百済の話が多く出てくる。私見では倭国の親戚は新羅国であった(盟友関係)から、原古事記では百済に不利なことや新羅に有利なことが多く書いてあった。これも新羅の歴史の乗っ取りである。
 原古事記は歴代大王の帝紀・旧辞を整然と描いていたはずである。他人が読んでも嫌悪感をもよおすような事象は書くはずがない。今の古事記よりももっと分量は多かったはずだが、日本書紀を作ったために、14世紀に世に出るまでの600年あまりの間にかなり切り取りされている。それまで藤原氏のもとにあり、日本書紀に合うように、あるいは日本書紀より嫌悪感を感じるように改ざんを繰り返してきた。だから、藤原氏にとって不都合な旧辞(欠史八代)は削除してあるし、大碓・小碓のような話を創作することになる。原古事記には、初代から高市大王までの旧辞もすべて書いてあったはずである。

5 「壬申の乱」は「乱」ではなくヤマト王権が古くから行ってきた蝦夷(馬韓からきた準王一族)に対する平定であった。
 日本書紀・敏達10年(581年)に「蝦夷数千人が辺境を犯し荒らした。 蘇我馬子大王は首領の綾糟らを召して詔され、『お前達蝦夷は景行天皇(孝霊天皇)の世に討伐されて殺すべき者は殺され、許される者もいた。今、私も前例に倣って首謀者は殺そうと思う』といわれた」とある。
 壬申の「乱」の結果、「大友皇子、8月21日、首を吊って自決。右大臣中臣金、8月25日、近江国浅井郡田根で斬り殺された」。天武天皇も前例に倣って首謀者は殺した。亡命百済人(準王一族)の作った日本書紀はヤマト王権のする平定を上から目線で「乱」と書いた。
 隼人の乱(720年)も長年倭王権に属していた隼人を藤原氏が従わせようとしたため隼人が抵抗したのであり、テロリストは藤原氏であった。

6 左大臣右大臣制度は百済の制度である。天武天皇は新羅と親密に交流しているが、持統になって急に新羅にたいする態度が変化する。持統は新羅からの勅使に難癖をつけている(持統3年)。天武天皇は近江方の群臣の処分として右大臣を斬り、左大臣は流罪としてこの制度は無くしていたのだが、百済王朝の不比等と持統によって復活された。その後明治の太政官制まで続いた。
 後記ー660年より734年まで列島には2王朝が並立していた。左右両大臣制は百済王朝の官僚制度である。日本書紀は亡命百済王朝の歴史書であるから、基本的に大臣制度を採用している。倭王朝には大臣制度がなかった。聖徳太子(蘇我善徳大王)は自ら住民の陳情を聞いている。




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