「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

雄略天皇の皇居は鳥取県中部(伯耆国)にあった

2018-07-31 11:01:28 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
 第十二代天皇以降は伯耆国は関係ないと思っていたが、第十五代天皇や第二十一代天皇も伯耆国にいた。

1  古事記の「一言主」や日本書紀の「一事主」は原古事記にあった「事代主」を書換えたものである。
 日本書紀には「天皇は葛城山に狩りにおいでになった。突然長身の人が出現した。天皇はどちらの公でいらっしゃいますか、といわれた。背の高い人は、自分は一事主神である、といった。神は天皇を見送りされて、『来目川』までお越しになった。」とある。
 古事記には「天皇が葛城山に登った時に、やはり山に登る人々があった。向こうが答えて言うのに、私は葛城の一言主大神である、と言った。天皇が帰る時に、神は『長谷の山の登り口』のところまで見送ってくれた。」とある。
 原古事記には「事代主」と書いてあった。日本書紀では、一字を書換え、古事記では二字を書き換えた。倉吉市福庭の波波伎神社の由緒は極秘文書として藤原朝廷に提出しなかったため、諦めて記紀の事代主を一言主に書き換えたものと思われる。
 事代主は神武天皇のときから皇室に協力した神として、祀られていた。したがって、雄略天皇は恐れかしこんだ(古事記)のである。
 事代主は葛城山(蜘ヶ家山)の西の亀谷におり、国譲り後は葛城山(蜘ヶ家山)の東の福庭の奥に隠れ住んだ。生きていたら、葛城山(蜘ヶ家山)を歩いていてもおかしくない。雄略天皇は葛城山(蜘ヶ家山)で事代主の幻影を見たものと思われる。
 日本書紀では「神は葛城山(蜘ヶ家山)から来目川(国府川)までお越しになった」とある。来目川とは国府川のことである。来目川は神武天皇が論功行賞で畝傍山の西、川辺の地に大来目を居らせられた、とある「川」である。久米ヶ原の南の国府川と思われる。
 古事記では、「神は『長谷の山(打吹山)の登り口』のところまで見送ってくれた。」とある。長谷の山は倉吉市の打吹山である。打吹山の中腹に長谷寺がある。雄略天皇は「泊瀬の山は、体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は何とも言えず美しい。」と歌った(日本書紀)。「泊瀬」(日本書紀)は「長谷」(古事記)を書き替えたものである。打吹山は日本のピラミッドであると言う者がいるくらいに美しい。蜘ヶ家山(葛城山)から長谷寺の登り口(長谷の山の登り口)まで行く途中に、国府川(来目川)がある。

2  古事記・雄略・白い犬
 雄略天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹魚木をつけて作った家があった。雄略天皇は「あの鰹魚木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾の大県主の家でございます。」と答えた、とある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことである。古事記・雄略・白い犬の舞台は東郷池周辺であった。

3  長瀬高浜遺跡出土の埴輪(鳥取県湯梨浜町羽合歴史民俗資料館にて) 
 左上の写真が埴輪群。右上の写真はSB40(出雲大社のモデル)で古墳時代の初めごろとしているが、この近くの天神川床遺跡から弥生土器が多く発掘されている。これは、SB40の遺構の上にあったものと解しているので、SB40(出雲大社のモデル)は弥生時代前期の遺構であると解する。
 入母屋式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃
 四注式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃

4  鳥取県文化財団調査報告書6 長瀬高浜遺跡4  第4章 研究ノート
  16K地区埴輪群について(抜粋)          清水真一
 調査して取り上げた埴輪の数は、円筒埴輪12個、朝顔型埴輪53個、蓋型埴輪9個、家型埴輪5個、盾型埴輪3個、甲冑型埴輪3個、鞆型埴輪1個、大刀型埴輪(?)1個などである。       
 家型埴輪は5個体で、四注造りのものが西側中央部端に位置し、東側には入母屋式が1棟おかれていた。この他に切妻式のものが1棟、小型の四注造りのものが1棟の他、松江市乎所埴輪窯出土の屋根に火焔状の飾りをのせたものに近い大型の家型埴輪片が1棟分あるが、破片はそう多くない。火焔状飾りをのせるもの1棟、竪魚木(かつおぎ)をのせるもの2棟がある。
 一体どんな祭りが行なわれたのであろうか。高浜遺跡を総括的にみると古墳時代前期後半(4世紀後半)~中期前半(5世紀前半)にかけて、120棟もの竪穴住居と25棟もの掘立柱建物の立っていた大集落だった。その後古墳時代中期中葉(5世紀中葉)~後期後半(6世紀後半)にかけて、前方後方墳1基を含めて古墳21基、小石棺墓・木棺墓・円筒埴輪棺墓12基の墳墓群が作られる。
 埴輪群はこの集落が移動し墳墓が築造される間、つまり古墳時代中期前半の終り頃に作られたとみられる。

5  家型埴輪は5個体で、火焔状飾りをのせるもの1棟、竪魚木(かつおぎ)をのせるもの2棟がある、とする。また、埴輪群はこの集落が移動し墳墓が築造される間、つまり古墳時代中期前半の終り(450年)頃に作られたとみられる、とする。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 鳥取県北栄町米里(磐余邑)... | トップ | 雄略天皇の皇居、長谷の山(... »
最新の画像もっと見る

日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇」カテゴリの最新記事