「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

日本書紀14代天皇から27代天皇までの概略

2018-07-31 06:05:22 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

1 仁徳と履中の期間は倭の五王讃一人であった。
 原古事記には仁徳天皇と履中天皇の在位期間の間に一人の天皇が記載されていた。この天皇を仮に讃天皇とすると、この天皇は応神天皇の王子であり、反正天皇の兄であり、皇居は磐余の稚桜宮にあった。古事記・日本書紀では14代天皇を創作したために、実在した14代仁徳天皇を16代にしなければならなかった。15代応神天皇は百済にとって大事な天皇であったので動かすことはしなかった。仁徳天皇は応神天皇の兄であるので普通は応神天皇の前である。仁徳天皇は14代、履中天皇は16代であった。
 このように解すると、倭の五王の讃(履中天皇)は394年から436年までの在位(宋書倭国伝)となり、珍の兄であり、皇居は磐余邑(北栄町米里)にあったことになり、矛盾がなくなる。また、武内宿禰が仁徳天皇(武内宿禰の皇子)に仕えたとしても武内宿禰の年齢が220歳~360歳になることはない。日本書紀の仁徳天皇と履中天皇の期間は一人の天皇であり、倭の五王の讃であり、履中天皇であった。


2 反正は倭の五王珍に比定されるが、改ざんされている。
 古事記によると反正の在位期間は432年~437年(5年間)であるが、宋書倭国伝の讃の没年は436年であり、珍の元年は436年となる。古事記の反正は437年没となる。
 反正は実在であろうが、淡路島(藤原氏の聖地)で生まれ(日本書記)、身の丈は9尺2寸半(約二・八メートル)(古事記)、都は河内であり、讃の没年は436年(宋書倭国伝)が反正の没年437年(古事記)で在位1年、などは改ざんされていると思われる。原古事記にあった珍天皇は普通の身の丈であり在位は5年間とすると436年~441年の5年間であり、皇居は鳥取県中部(倭国)にあったはずである。


3 倭の五王済に比定される允恭も改ざんされている。日本書紀の在位は42年間としているが、宋書倭国伝では在位441年頃~454年の14年間である。允恭も応神天皇の王子としている(日本書紀)からは在位14年位が妥当である。日本書紀には皇居の記載はない。古事記には遠飛鳥の宮殿とある。稗田阿礼は場所を表現するのに特定しやすい表現をしているので、遠飛鳥の宮は稗田阿礼の表現ではない。日本書紀・衣通郎姫で藤原が6回使われている。藤原氏の祖は藤原鎌足(644年~)である。衣通郎姫の部分は百済(藤)王家の旧辞であると思われる。


4 倭の五王興に比定される安康天皇の在位は454年~467年頃(私見)で13年位である。日本書紀では3年で殺されている。古事記に在位期間を示すものはない。雄略天皇を凶暴な天皇にするために安康天皇は早い段階で殺されたことにした。実際は13年くらいと思われる。


5 倭の五王武に比定される雄略天皇は安康天皇の弟である。この点は「宋書」夷蛮伝と同じである。古事記では489年没とする。雄略天皇の在位は467年頃(私見)~489年と思われる。
 不比等たちは百済王家であった出来事を日本書紀の中に書き入れた。億計・弘計の発見物語もそのひとつである。そのために、雄略天皇の性格を凶暴にする必要があった。古事記・安康天皇の馬飼い牛飼いの話はその前段である。古事記における雄略はそれほど凶暴ではない。凶暴に描かれているのは日本書紀である。多くの人を殺したことにしている。


6 弘計・億計2王の発見物語は典型的な貴種流離譚であって、そのまま史実としては信じ難い。弘計・億計の話は百済国での出来事であり、亡命百済人たちは百済王家の歴史として、日本書紀に書き込んでいった。弟の弘計・兄の億計の話は列島には実在せず、2天皇の在位期間(15年)は、原古事記では倉吉市大原の石上広高宮を皇居とする1人の天皇が記録されていたはずである。
 百済人の山上「憶良」は侍医の百済人「憶仁」の子であるので、「億計」の名は百済人の名が連想される。顕宗天皇の近飛鳥八釣宮は架空の宮である。


7 第23代、第24代、第25代、第26代天皇は百済王家の王であり事績も百済であった出来事である。
 弘計や億計の話は百済国であった出来事である。億計の名前は亡命百済人の医師憶仁や山上憶良を連想させる。神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」という。祭りの中でも神楽のようなにぎやかな祭りは百済発祥である。逆に盆正月のような静かな祭りは新羅発祥である。弘計や億計の話は列島の地名をちりばめて、列島を舞台にした。その父を殺した雄略天皇を残虐な天皇にする必要があった。
 雄略の旧辞は証明できる部分があるので、原古事記にあった旧辞を使っている。ただし、一言主は事代主と書いてあったのを改ざんしている。雄略は実在の倭国天皇(倭王武)である。雄略も倭国の天皇なので、無駄な殺生はしない天皇であった。わずかなことで人を殺すような天皇に仕立て上げたのは、藤原氏である。
 藤原氏は無道な百済王(末多王)の事績を日本書紀の武烈の旧辞に持ってきている。武烈(末多王)のような事績を無道と言うのである。百済の国人は末多王を捨てて、武寧王を立てた。継体のモデルは武寧王と思われる。
 23代天皇~26代天皇の旧辞と名は百済王の旧辞と名である。日本書紀第23代第24代の期間、倭国では1人の天皇であった。石上広高宮(倉吉市大原)に皇居があった1人の天皇の在位期間を2人に分けた。


8 宣化天皇はおらず蘇我稲目天皇(536年即位)であった。
 第28代宣化のときにはすでに蘇我稲目が天皇(大王)であった。日本書紀・宣化・那津官家の整備・において、詔して「・・・・。蘇我大臣(大王)稲目宿禰は、尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の籾を運ばせよ。・・・・早く郡県に下令して、私の心を知らしめよ」と仰せられた、とある。大臣とあるが詔したのは蘇我稲目天皇(大王)であると思われ、すでに天皇(大王)であった。


9 雄略天皇は在位467年~489年と思われるので489年(雄略天皇没)から536年(蘇我稲目天皇即位)までの47年の間に5人の天皇が即位している。一人平均9.4年であり、短い。これはそれまで倭国天皇は戦争の最前線に立つことが習わしであったので、半島で戦死したと思われる。ただ、蘇我氏からはその習わしを変えたようである。


10 おそらく、反正(在位436年~441年)、允恭(在位441年頃~454年)安康(在位454年~467年頃)は、高句麗・百済との戦いで戦死し新羅は累卵の危うきにあった。雄略天皇が復興した国は百済ではなく、新羅である。反正、允恭、安康は高句麗・百済にさんざんに負けており、戦死したのかもしれない(宋書蛮夷伝・武の上表文より)。百済は新羅を滅ぼし、新羅から倭国まで船で来て襲ったのかもしれない。長瀬高浜遺跡の多くの埴輪が壊されたのも5世紀中頃であるし、つづらさわまきの鉄刀と一緒に見つかった女性が亡くなったのも5世紀中頃である。反正、允恭に至っては名前もおかしいし、亡命百済王朝(日本)によって皇居の所在地のヒントも残らないくらい自由奔放に書かれているので高句麗・百済によって完膚無き迄にやられたと思われる。亡命百済王朝(日本)はその時の倭国天皇を覚えているので完全に書き換えたと思われる。



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