俺は早稲田大学の学生であることを誇りに思う。
偏差値が高いからとか、全国に名が知れているからとか、そんな下らない理由ではない。
「有名だから」が理由になれば、正直、俺の心の中にある「やっぱり北大は・・・」は消えるはずが無い。「北大」という言葉で、北海道以外の人間のどれだけが「え、どこ?東北?」と言うであろうか。(北海道の人へ。これは、俺がよく言われた言葉だよ。)
俺が早稲田を愛する理由。それは、大学の地位でもなく、大学が授業料の見返りに行う教育でもない。
早稲田の文化である。
そして、早大生を友達として持つものは言うだろう。
早大生は酒を飲みまくる、と。酒を飲むことが早稲田の文化である、と
早大生からしてみれば、「酒を飲む」は時としてそのことそのものが目的になることもあるし、その頻度は他大に比べたら多いかもしれない。
しかし、本当のところは、「酒を飲む」ことはひとつの「手段」なのである。
では、俺が早稲田のどんな文化がすきなのか。
「早稲田魂」である。
これは換言されて、「雑草魂」だとか「貧乏魂」だとか「ハングリー精神」だとかの表現にも変わる。
雑草ならば、雑草らしく、引っこ抜かれるまで、または枯れるまで、この地上に生れ落ちた意義を示し続けよう。貧乏だけど、この世での生を楽しもう。そして、いつまでも上昇し続けよう。その言葉、精神が俺に刺激を与えてくれる。
何かやっているとき、「早稲田魂」という言葉が頭を常に過る。それ故、やり続けようと思える。
また、早稲田大学は「開かれた庶民の大学」である。
だから、周辺の町と同化していける。
だから、早稲田大学は、学校法人早稲田大学が所有する土地がキャンパスなのではなく、町全体が「キャンパス」なのである。
今年の7月22日の記事にも載せたとおり、俺たち学生を見守ってくれる「親」が店の数だけ存在する。その店に通い通せば、「親」になる。そんな早稲田文化。それがワセ飯である。
俺が足しげく通った店、三品、此処呂、にいみ。
にいみ、は建物を建て直す関係でもう早稲田に来ることは二度とない。
しかし、そこには、「お母さん」がいた。
三品と此処呂、そこには「お父さん」と「お母さん」がいる。
俺たち、本当に馬鹿な学生を見守ってくれる「親」がいる。それが早稲田である。
そして、このブログを読んでいる人の中に、「一人っ子」という人がいるだろう。俺自身も「一人っ子」である。
もちろん、他大でも存在するが、俺の「兄弟」と心から思える人がいるのは、早稲田である。
貴夫、梓。
このブログを読んでいる早大生には申し訳ないが、この二人は、本当に「兄弟」と思える付き合いをしてきた。少なくとも、俺はそう思ってる。
貴夫とは、共にイギリスに行って、時を共に過ごし、さらに仲を深めることができた。「大親友」と、心から思える逸材である。お前は俺にとっての宝だ。でも、礼儀として、今後もお前への「中傷」は続けるからな(笑)
梓とは、梓が早稲女であることもあり、同性と同じように付き合ってきた。そして、「親友に性別は関係ない」という確信を持たせてくれた。
そんな貴様らと出会わせてくれた、この早稲田大学。
俺は、誇りに思う。それ以外すべが無い。
あれみよかしこの ときわの森は
心のふるさと われらが母校
集まり散じて 人は変われど (北海道、広島、大分から集まった。そして、散る。)
仰ぐは同じき 理想の光
偏差値が高いからとか、全国に名が知れているからとか、そんな下らない理由ではない。
「有名だから」が理由になれば、正直、俺の心の中にある「やっぱり北大は・・・」は消えるはずが無い。「北大」という言葉で、北海道以外の人間のどれだけが「え、どこ?東北?」と言うであろうか。(北海道の人へ。これは、俺がよく言われた言葉だよ。)
俺が早稲田を愛する理由。それは、大学の地位でもなく、大学が授業料の見返りに行う教育でもない。
早稲田の文化である。
そして、早大生を友達として持つものは言うだろう。
早大生は酒を飲みまくる、と。酒を飲むことが早稲田の文化である、と
早大生からしてみれば、「酒を飲む」は時としてそのことそのものが目的になることもあるし、その頻度は他大に比べたら多いかもしれない。
しかし、本当のところは、「酒を飲む」ことはひとつの「手段」なのである。
では、俺が早稲田のどんな文化がすきなのか。
「早稲田魂」である。
これは換言されて、「雑草魂」だとか「貧乏魂」だとか「ハングリー精神」だとかの表現にも変わる。
雑草ならば、雑草らしく、引っこ抜かれるまで、または枯れるまで、この地上に生れ落ちた意義を示し続けよう。貧乏だけど、この世での生を楽しもう。そして、いつまでも上昇し続けよう。その言葉、精神が俺に刺激を与えてくれる。
何かやっているとき、「早稲田魂」という言葉が頭を常に過る。それ故、やり続けようと思える。
また、早稲田大学は「開かれた庶民の大学」である。
だから、周辺の町と同化していける。
だから、早稲田大学は、学校法人早稲田大学が所有する土地がキャンパスなのではなく、町全体が「キャンパス」なのである。
今年の7月22日の記事にも載せたとおり、俺たち学生を見守ってくれる「親」が店の数だけ存在する。その店に通い通せば、「親」になる。そんな早稲田文化。それがワセ飯である。
俺が足しげく通った店、三品、此処呂、にいみ。
にいみ、は建物を建て直す関係でもう早稲田に来ることは二度とない。
しかし、そこには、「お母さん」がいた。
三品と此処呂、そこには「お父さん」と「お母さん」がいる。
俺たち、本当に馬鹿な学生を見守ってくれる「親」がいる。それが早稲田である。
そして、このブログを読んでいる人の中に、「一人っ子」という人がいるだろう。俺自身も「一人っ子」である。
もちろん、他大でも存在するが、俺の「兄弟」と心から思える人がいるのは、早稲田である。
貴夫、梓。
このブログを読んでいる早大生には申し訳ないが、この二人は、本当に「兄弟」と思える付き合いをしてきた。少なくとも、俺はそう思ってる。
貴夫とは、共にイギリスに行って、時を共に過ごし、さらに仲を深めることができた。「大親友」と、心から思える逸材である。お前は俺にとっての宝だ。でも、礼儀として、今後もお前への「中傷」は続けるからな(笑)
梓とは、梓が早稲女であることもあり、同性と同じように付き合ってきた。そして、「親友に性別は関係ない」という確信を持たせてくれた。
そんな貴様らと出会わせてくれた、この早稲田大学。
俺は、誇りに思う。それ以外すべが無い。
あれみよかしこの ときわの森は
心のふるさと われらが母校
集まり散じて 人は変われど (北海道、広島、大分から集まった。そして、散る。)
仰ぐは同じき 理想の光