till the promised end

the story from the sudden birth to the compulsory death

嗚呼、早稲田よ。

2006-12-07 04:00:21 | Weblog
俺は早稲田大学の学生であることを誇りに思う。

偏差値が高いからとか、全国に名が知れているからとか、そんな下らない理由ではない。

「有名だから」が理由になれば、正直、俺の心の中にある「やっぱり北大は・・・」は消えるはずが無い。「北大」という言葉で、北海道以外の人間のどれだけが「え、どこ?東北?」と言うであろうか。(北海道の人へ。これは、俺がよく言われた言葉だよ。)

俺が早稲田を愛する理由。それは、大学の地位でもなく、大学が授業料の見返りに行う教育でもない。

早稲田の文化である。

そして、早大生を友達として持つものは言うだろう。

早大生は酒を飲みまくる、と。酒を飲むことが早稲田の文化である、と

早大生からしてみれば、「酒を飲む」は時としてそのことそのものが目的になることもあるし、その頻度は他大に比べたら多いかもしれない。

しかし、本当のところは、「酒を飲む」ことはひとつの「手段」なのである。

では、俺が早稲田のどんな文化がすきなのか。

「早稲田魂」である。

これは換言されて、「雑草魂」だとか「貧乏魂」だとか「ハングリー精神」だとかの表現にも変わる。

雑草ならば、雑草らしく、引っこ抜かれるまで、または枯れるまで、この地上に生れ落ちた意義を示し続けよう。貧乏だけど、この世での生を楽しもう。そして、いつまでも上昇し続けよう。その言葉、精神が俺に刺激を与えてくれる。

何かやっているとき、「早稲田魂」という言葉が頭を常に過る。それ故、やり続けようと思える。

また、早稲田大学は「開かれた庶民の大学」である。

だから、周辺の町と同化していける。

だから、早稲田大学は、学校法人早稲田大学が所有する土地がキャンパスなのではなく、町全体が「キャンパス」なのである。

今年の7月22日の記事にも載せたとおり、俺たち学生を見守ってくれる「親」が店の数だけ存在する。その店に通い通せば、「親」になる。そんな早稲田文化。それがワセ飯である。

俺が足しげく通った店、三品、此処呂、にいみ。

にいみ、は建物を建て直す関係でもう早稲田に来ることは二度とない。

しかし、そこには、「お母さん」がいた。

三品と此処呂、そこには「お父さん」と「お母さん」がいる。

俺たち、本当に馬鹿な学生を見守ってくれる「親」がいる。それが早稲田である。

そして、このブログを読んでいる人の中に、「一人っ子」という人がいるだろう。俺自身も「一人っ子」である。

もちろん、他大でも存在するが、俺の「兄弟」と心から思える人がいるのは、早稲田である。

貴夫、梓。

このブログを読んでいる早大生には申し訳ないが、この二人は、本当に「兄弟」と思える付き合いをしてきた。少なくとも、俺はそう思ってる。

貴夫とは、共にイギリスに行って、時を共に過ごし、さらに仲を深めることができた。「大親友」と、心から思える逸材である。お前は俺にとっての宝だ。でも、礼儀として、今後もお前への「中傷」は続けるからな(笑)

梓とは、梓が早稲女であることもあり、同性と同じように付き合ってきた。そして、「親友に性別は関係ない」という確信を持たせてくれた。

そんな貴様らと出会わせてくれた、この早稲田大学。

俺は、誇りに思う。それ以外すべが無い。


あれみよかしこの ときわの森は
心のふるさと われらが母校
集まり散じて 人は変われど (北海道、広島、大分から集まった。そして、散る。)
仰ぐは同じき 理想の光

卒論2

2006-12-07 02:56:50 | Weblog
よっしゃ。結構、見通しが立ってきたぞ。いや、見通しって、目次ができていない、とかいうんじゃなくて、一番の山場を乗り越えたって感じね。

いかんせん、ベルクソンとかいう哲学者は簡単なことを難しく書くのが好きらしく(代ゼミのある講師いわく、哲学者は難しく書かないと馬鹿に思われるから、意図的に難しく書いているとのこと。それを、知り合いの哲学者に聞いたって言ってた)、非常に読解が困難で、またそれを日本語に訳したやつが下手糞で、日本語の意味がわからないから、英語訳を図書館で入手して、英語訳で読んだほうがわかりやすいところがある、って言うよくわからない現象が起きています。

ベルクソンの「笑い」について知りたい方へ、俺の卒論のほうが100倍わかりやすい「英語」で書いてあるんで、教えてください。見せます(笑)