タイトルは、石川五右衛門の辞世の句であるとされるもの。
盗人に限らず、人は不完全であるが故に、犯罪が絶えることはなかろう。英語のことわざにも、"To err is human, to forgive divine"(過つは人の常、許すは神の心)というものがある。
一時期、心理学者の間で、ありとあらゆる「暴力」というものは人間の本能として備わっている、と考えられている時期もあった。(確か、アインシュタインは肯定派だった気がする)
水谷修氏、及び芹沢俊介氏によれば、全ての犯罪は、社会が生み出したものとさえ言う。(水谷氏の場合、「子供」のみを指す。芹沢氏も、基本的にはそうであるが、自己防衛のためという意味で、全ての年代をも指し得る)
吹越自身、上記両者の考えを否定する者ではなく、むしろ肯定する立場である。しかし、客観的に考えて、「社会が生み出してしまった」犯罪、つまり、検察によって起訴された被疑者自身が、現代社会の被害者であるパターンが、最近目立ってきている気がする。
特に顕著なのが、今年の三月に判決が出た、「京都認知症の母殺害事件」である。
以下に、この事件に関する動画を載せておきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=QLjXRMoM7Ec
父親が他界してから母親の認知症が発症し、十数年後母親の介護のために退社するも、公的援助を受けることができずに収入が途絶え、「健康で文化的な最低限度の生活」(日本国憲法第25条にて、国民に保障されている「はず」の権利)はおろか、動物(人間含)にとって生命活動維持のために必要不可欠な要素の吸収を目的とする「食」さえも不可能になり、母子共に「生きる」術をなくし、息子が母、そして自らを殺めることにより他人に迷惑をかけることがないように対処するも、自らは一命を取り留めてしまったことにより、息子は被疑者として裁判にかけられる。被疑者は、母親の命は奪ったものの、もう一度同じ母親の息子に生まれたいという証言もしている。
判決では、尊属殺人(=簡単に言ってしまえば、親殺し)はかつては無期懲役か極刑であったものであるが、執行猶予付きの刑か言い渡された。その理由は、先ほどの動画で語られている通りである。
そして、この事件にとどまらず、今日の新潟地裁で判決が出た事件に関しても、同様の尊属殺人であるが執行猶予がついた判決が出た。(ソース:http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070626i414.htm?from=rss)
結構、ネットで調べてみると、同種の事件が多発している。
こうやってさ、「身内の病により起きる犯罪」に関しては、かなり前から予想されていたものだと思うんだよ。で、その予想は、きちんと映画で公開もされているんだよ。
その映画のタイトルは、俺が知っているものでは"John Q"
心臓病で倒れた息子を助けるために、ドナー被提供者のリストに載せるために、病院ジャックするって言う話。
こうやって警笛を鳴らされていたのに、現実としては社会問題として上がる。
命を救う、人の人生を救う、というのは特殊な能力を持った人のみができるものではなく、「友人の話を聞く」で救える。上記のものは、明らかにそうである。
もし、話を聞いてくれる「友人」がいたら、居候という手段が可能であったはず。それができていたら、この事件の被疑者は被疑者にならずに済んだ。
人は、過ちを繰り返していくのだろうか・・・。
盗人に限らず、人は不完全であるが故に、犯罪が絶えることはなかろう。英語のことわざにも、"To err is human, to forgive divine"(過つは人の常、許すは神の心)というものがある。
一時期、心理学者の間で、ありとあらゆる「暴力」というものは人間の本能として備わっている、と考えられている時期もあった。(確か、アインシュタインは肯定派だった気がする)
水谷修氏、及び芹沢俊介氏によれば、全ての犯罪は、社会が生み出したものとさえ言う。(水谷氏の場合、「子供」のみを指す。芹沢氏も、基本的にはそうであるが、自己防衛のためという意味で、全ての年代をも指し得る)
吹越自身、上記両者の考えを否定する者ではなく、むしろ肯定する立場である。しかし、客観的に考えて、「社会が生み出してしまった」犯罪、つまり、検察によって起訴された被疑者自身が、現代社会の被害者であるパターンが、最近目立ってきている気がする。
特に顕著なのが、今年の三月に判決が出た、「京都認知症の母殺害事件」である。
以下に、この事件に関する動画を載せておきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=QLjXRMoM7Ec
父親が他界してから母親の認知症が発症し、十数年後母親の介護のために退社するも、公的援助を受けることができずに収入が途絶え、「健康で文化的な最低限度の生活」(日本国憲法第25条にて、国民に保障されている「はず」の権利)はおろか、動物(人間含)にとって生命活動維持のために必要不可欠な要素の吸収を目的とする「食」さえも不可能になり、母子共に「生きる」術をなくし、息子が母、そして自らを殺めることにより他人に迷惑をかけることがないように対処するも、自らは一命を取り留めてしまったことにより、息子は被疑者として裁判にかけられる。被疑者は、母親の命は奪ったものの、もう一度同じ母親の息子に生まれたいという証言もしている。
判決では、尊属殺人(=簡単に言ってしまえば、親殺し)はかつては無期懲役か極刑であったものであるが、執行猶予付きの刑か言い渡された。その理由は、先ほどの動画で語られている通りである。
そして、この事件にとどまらず、今日の新潟地裁で判決が出た事件に関しても、同様の尊属殺人であるが執行猶予がついた判決が出た。(ソース:http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070626i414.htm?from=rss)
結構、ネットで調べてみると、同種の事件が多発している。
こうやってさ、「身内の病により起きる犯罪」に関しては、かなり前から予想されていたものだと思うんだよ。で、その予想は、きちんと映画で公開もされているんだよ。
その映画のタイトルは、俺が知っているものでは"John Q"
心臓病で倒れた息子を助けるために、ドナー被提供者のリストに載せるために、病院ジャックするって言う話。
こうやって警笛を鳴らされていたのに、現実としては社会問題として上がる。
命を救う、人の人生を救う、というのは特殊な能力を持った人のみができるものではなく、「友人の話を聞く」で救える。上記のものは、明らかにそうである。
もし、話を聞いてくれる「友人」がいたら、居候という手段が可能であったはず。それができていたら、この事件の被疑者は被疑者にならずに済んだ。
人は、過ちを繰り返していくのだろうか・・・。