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先祖を探して

Vol.367 琉球辞令書の「任ズ」と「遷任セシム」③

沖永良部島についての記述がある家譜について、実際に書かれてる内容を確認してみました。まずは容家の家譜からです。

①1558年 容家家譜
是歳ノ頃、琉球国中山王尚元、沖永良部島首里大屋子〇姓名不詳を任ズ

容家の記録は、琉球時代の沖永良部島の支配者であった首里大屋子と呼ばれる人物について書かれた、一番古い記録になります。
家譜の内容を確認してみると、1558年頃に首里の大屋子に任じられたのは、容家の人物ではありませんでした。
なんと、それは容家の一世になる義貫の妻であった真鶴が、永良部首里大屋子の娘であったのです。
1558年のところに記載されているのは、長男がこの年に生まれているので、その頃に結婚しており、その時期あたりに妻の真鶴の父親が永良部首里大屋子であったという意味のようです。

義貫は1540年生まれで、彼が18歳の時に長男が誕生しています。妻の真鶴も同年代だと思われます。

その頃に義貫は、久米具志川築登之親雲上という位で、離島の久米島が領地だったようです。しかし、その頃は尚真王による中央集権体制が確立していましたので、彼は久米島にいたのではなく、首里にいたのだと思われます。
妻の真鶴一家はどうだったのでしょうね。
恐らくですが、父親は永良部首里大屋子はとして沖永良部島に派遣され、家族は首里にいたのかもしれません。それで結婚が成立したのかもしれません。
あくまで推測ですが。

この真鶴の父親であった永良部首里大屋子とはいったい誰であったのか、知りたいですね。


③1575年 容姓家譜
是歳、琉球国中山王尚永、容義貫ヲ沖永良部島ノ役人ニ任ズ

その後の義貫は上記の任命を受けたようです。1575年3月の35歳の時に沖永良部の役人になったようですが、詳しくは書かれておりません。沖永良部島に派遣されたのか?
その後は、7年後の1582年の42歳の時に、聞得大君御殿儀者座敷という役職になっています。
ちなみに聞得大君とは第二尚氏時代の琉球神道における最高神女(ノロ)で、主に王族の女性が任命されていました。
1582年といえば、松岳という尚元王の妃が三代目のノロでありました。

容家の1世であった義貫の両親は不詳となっていました。容(よう)は、琉球尚家の尚(しょう)の読み方の「よう」の音を取った苗字ですね。ご先祖様は尚家に関係する人であったのか?


こちらの容家の家譜からは、沖永良部島に渡海した役人であったのかの判断は出来ませんでした。
しかし、1558年頃に妻の真鶴の父親であった永良部首里大屋子が存在していて、その者が島にいた可能性があったことが分かりました。


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