ご先祖様の遺品の中に、銀色の簪(かんざし:ジーファー)が残されています。
簪は琉球文化の象徴の1つです。琉球に服属していた時代には、奄美の島々の大屋子や与人といった役職者は、金の簪、朝衣、大広帯を用いており、それ以下の役人も階級によって服装が決まっていました。
尚真王の時代から、役職は冠(ハチマチ)の色と簪(かんざし)の材質で区分され、17世紀になると簪の種類は、金・銀・真鍮・ベッコウ・木などの材質で身分の細分化がなされたそうです。
1609年に薩摩が侵攻して以来、奄美の島役人たちはずっとその琉球式を保ってきていたようですが、1720年になって島津吉貴公によって金銀の簪や絹布着用の禁止令が出されました。
1609年に薩摩が侵攻して以来、奄美の島役人たちはずっとその琉球式を保ってきていたようですが、1720年になって島津吉貴公によって金銀の簪や絹布着用の禁止令が出されました。
1720(享保2)年 島津吉貴公による禁止令
(和泊町誌歴史編)
この文書が発令以降、奄美4島の役人は金銀の簪の使用を禁止され、しんちゅうの簪を用いることになったのです。
着物については、役人は朝衣と広帯は許され、紬の着用も許されたが、絹布は禁止されました。
簪については、しんちゅうの簪のみ使用となると、平民と役人の区別がつかず役人としての権威が保たれないとして、当時の島の与人達は薩摩に金銀の簪の使用について嘆願し、その結果、銀の簪2本のみ使用が許可されました。
その後は、簪についてはその規定に従っていましたが、新たに増設された役目などに待遇上の規定が無かったので、最初の禁止令から138年後の1858(安政5)年に、島津忠重公の時に簪の制限が更に定められました。
1875(安政5)年 島津忠重公による簪の制限(和泊町誌歴史編)
こうした経緯を持つ簪ですが、本家に遺品として保管されている簪がいつの時代の物で、誰が使っていた物なのかの詳細は分かりません。
しかし、記録上の始祖であった中城は与人として簪を使っていたでしょうし、宗家の屋敷は「宗の四間殿内」と呼ばれていましたので、「銀の簪+殿内」を琉球の階級で見ると士族クラスです。
琉球時代のご先祖様は士族で島役人の大屋子(この頃は金の簪だったかもしれませんが、遺品は残っておりません)であり、薩摩時代以降は与人として銀の簪を使っていたのかもしれません。
遺品から垣間見えた琉球や薩摩時代の歴史とご先祖様でした。