真実はここにある

日本のマスコミは嘘ばかり

移民の受け入れで一番被害をこうむるのは一般の人たち!移民受け入れ政策は犯罪者を受け入れるという事になる。

2016-11-10 | 正論
 また池内恵氏のface bookで拾ったのですが、WSJに大変面白い論文が出ていました。
 
 筆者はレーガン大統領の演説のゴーストライターなど務めていた人です。

 一応全文紹介します。 
 WSJへの寄稿は今年の8月15日です。

【寄稿】同胞を見捨てる世界のエリート

By PEGGY NOONAN
2016 年 8 月 15 日 09:59 JST
 西側では今、社会の頂点に立つ人々と社会の底辺に生きる人々に距離が生まれている。社会が比較的安定していた時代には、こうした現象が起きることはなかった。
 先日、ドイツのメルケル首相の知人と話をした。会話は移民をめぐるメルケル氏の決断に及んだ。昨年の夏、欧州にはイスラム諸国から大量の移民や難民が押し寄せた。このときメルケル氏は独断で、ドイツに80万人という驚くべき数の移民・難民を受け入れると発表した。当然のことながらこれが呼び水となり、100万人以上がドイツに流入した。その結果、犯罪や文化の違い、テロの恐怖に国民は猛反発した。メルケル氏のような断固とした、地に足の着いた人物にしては不可解な決断だったが、メルケル氏は柄にもなく、人間や人間の生き方、歴史そのものに幻想を抱いていた。実際には歴史は富める人々と貧しき人々が共に暮らす共同体というより納骨堂といったほうがいいのだが。
 メルケル氏の知人はため息をつき、その通りだと言った。思いもよらない力によって圧倒されるのと、侵略者を自ら招き入れるのは全く別の話だ。しかし知人は言った。メルケル氏は理想を追い求めて行動しているのではないかと。ルター派の牧師の娘で、東ドイツで育ったメルケル氏は、社会から排斥され、行き場がないと感じる人々にもともと同情的だったのだろう。それだけではない。21世紀となった今、メルケル氏はドイツが20世紀に犯した大罪に対して一つの答えを示そうとしている。ナチズムや少数派の殺害・虐待を許し、歴史に汚点を残したドイツが寄る辺なき人々を温かく迎え入れて道徳的な勝利を達成する。こうした考えがメルケル氏の原動力になっていると知人は言った。
 これまでもこのような解説を耳にしたことはある。なるほどそうだろう。しかしメルケル氏の決断には根本的な問題がある。見ての通り、この決断は今や西側社会全体に広がっている。メルケル氏はとてつもなく大きな文化の変化という重荷を自分や自分の同類で引き受けることはせず、厳しい生活を送り、このような重荷に対処するだけの資源を持たず、特別に保護されることもなく、金もコネもない普通の人々に背負わせた。メルケル氏や内閣、政府、それに移民をめぐる決断を称賛したメディアなどの文化装置は一切影響を受けなかった。今後も影響を受けることはないだろう。
 社会の頂点に立つ人々の生活は何も変わらない。さまざまな文化を融合させ、毎日のように起きるいさかいを乗り越え、犯罪や過激主義、街で起きている恐ろしい出来事に対処するという難題を押し付けられたのは、ほとんど何も持たない人々――私は「保護されていない人々」と呼んでいる――である。戦いは彼らにゆだねられた。年月をかけて徐々にこうなったわけではない。突然、収束する気配のない現在進行形の危機に放り込まれたようなものだ。こうした状況を解消しようとするほど彼らのことを気に掛ける人はいない。
 いずれの問題についても権力の座にある人間が心配している様子はない。労働者階級や中産階級がショックを受けて憤り、反発すると、頂点に立つ人々は彼らを「外国人嫌い」「偏狭」「人種差別主義者」というレッテルを貼った。一方、決断は下すが、その代償は一切引き受けない、社会から隔絶された人々は「人道主義者」「思いやりがある」「人権のヒーロー」と言われた。
 そして昨年の大みそか、ドイツの都市ケルンでこの2つの階層を引き離す大きな事件が起きた。主に若い移民の男たちが数百件もの性的暴行事件をはたらいたのだ。男たちは女性がベールをかぶった社会で育ち、女性はベールをかぶるものと考えている。彼らはミニスカートやハイヒールを身につけた女性を見て、男を誘っていると受け止めた。
 当然のことながら、ケルンの事件後も犯罪が続いた。
 ジャーナリストのクリス・コールドウェル氏は数週間前のメルケル氏の発言についてウィークリー・スタンダード紙で報じた。メルケル氏は歴史が国民に「グローバリゼーションがもたらす利点の裏側、影の部分を克服するよう」求めていると述べた。
 コールドウェル氏はこう書いた。「これは新たにドイツにやってきたさまざまな人々が驚くべきスピードでドイツの有権者を攻撃し殺し始めたことをメルケル氏が認めたということだ」。メルケル氏の発言のすぐあとで、ミュンヘン(マクドナルドで9人が殺害された)やロイトリンゲン(包丁での攻撃)、アンスバッハ(自爆テロ)などでさらに恐ろしい犯罪が発生した。
***
 さらに大きな問題は、社会の頂点に立つ人々が底辺で暮らす人々から自らを切り離し、愛着も仲間意識を持つこともほとんどないという事態がいたる所で起きていることだ。こうした現象は西側の権力の中枢全体に広がっている。問題の根本は社会の頂点に立つ人々が同胞、すなわち政策決定の場にいない人々、自己中心的で善人を装う指導者に見捨てられたことを理解している人々の生活から切り離され、関心すら失っていることだ。
 ウォール街では頂点に立つ人々はかつて、指導者としての資質を備えていたものだが、今では生きるだけで精一杯だ。最高経営責任者(CEO)は短期的な思惑や株価、四半期決算に忙殺され、「米国」に積極的に関わらなければならないとは思っていない。自分の仕事は世界規模で考えることであり、株主の期待に応えることだと考えている。
 シリコンバレーでは「国益」という概念が議論されることはあまりない。シリコンバレーの人々は国益をしのぐ、より抽象的で世界的な価値を支持している。彼らにとって重要なのは米国ではない。彼らに尋ねれば、重要なのは未来と答えるのではないだろうか。

 ハリウッドでは富裕層が文化の衰退や気分が悪くなるような映像から自分たちの子どもを守っているが、家族が崩壊して親を失った貧しい子どもがこうした映像からメッセージを受け取り、先々、それを実行に移したところで気にすることはない。
 ビジネスの世界でも政治の世界でも、権力の座にある人々について思うのは、同じ国に住む人々を同胞だと思っていないことだ。同じ国に住んではいるが異質な存在で、わからないながらその気持ちを読み、管理する努力をしなければならないと考えている。
 マンハッタンでは、世界中から集まったビジネスエリートの子女が仲間内で結婚し、ロンドンやニューヨーク、ムンバイに落ち着く。エリートたちは子どもを同じ学校に通わせ、階級の違いを見逃さない。ムンバイやマンハッタンのエリートがそれぞれの国の底辺で暮らす、必死に生きるがさつな人々に共感することはめったにない。こうした人々に結びつきを感じることもなければ彼らに対して責任を感じることもない。実際、エリートたちは底辺の人々を恐れており、自国ではあれこれ工夫を凝らして自分たちの富や世俗的な成功をあまり知られないようにしている。
 富が分離を招いたとすれば、社会の頂点と底辺の間に距離を生んだのは権力だ。私の頭の中ではまだ整理がついていないが、指導者と導かれる人々の分裂に関連して何か大きな問題が起きようとしているのではないか。これはまさに現代の特徴の1つだが、それにしても奇妙なのは、国への帰属意識や責任を伴う絆を背負っているという認識、国民に愛着か、少なくともしかるべき尊敬の念を持つべきという考えをエリート層が捨ててしまった、あるいは捨てようとしていることである。
 最後に主要メディアで報道されていないニュースを紹介しよう。先週、デイリー・コーラーのピーター・ハッソン記者は米バージニア州に再定住したシリア難民の行き先が貧困地区だったと報じた。国務省の統計によると、昨年10月以降にバージニア州が受け入れた難民のほぼ全てが、「ワシントンDC郊外にある高級住宅街から数時間離れた、低所得で高貧困率の町に配置された」という。難民121人のうち、112人はワシントンDCから少なくとも100マイル(約161キロメートル)離れたコミュニティーに割り振られた。米国有数の高級住宅街で、政府やメディアの関係者が暮らすフェアファックスやラウドン、アーリントンといった郡に配置された難民はたった9人だった。
 社会の頂点に立つ人々は無意識に底辺の人々から自らを切り離しているわけではない。抜け目なく、ただ単に自衛のために切り離していることもある。自分たちのことなら少なくともある程度はなんとかできるのだ。
(筆者のペギー・ヌーナンはWSJ週末版の定期的寄稿者。著作も多く、レーガン元大統領のスピーチライターを務めた経歴を持つ)



 ワタシもこれはその通りだと思います。
 昨年来の難民危機を見ていて思ったのは、メルケルやローマ法皇など所謂世界の指導者達がやろうとしたのは、結局他人の負担での善行でした。
 なるほど難民はカワイソウです。
 だから難民を受け入れるのは全き善行です。 
 それで難民受け入れをを決めたのですが、しかし難民受け入れで負担を強いられるのは、その受入国の一般国民、特に低所得者なのです。
 難民受け入れを決めて、自分の善行に酔っている人達は、実際には何の負担もありません。 
 難民の衣食住と医療費は、国家予算で出すのです。 
 また難民を受け入れた事による治安の悪化の影響や、まして失業率の増大の影響など一切受けない所で生活しているのです。


 自分が負担しないつもりなら、どんな善行だってできます。
 しかし彼等はその善行を行い自分達を善行の聖者と信じ、負担を強いられた側が抗議すると「外国人嫌い」「偏狭」「人種差別主義者」と罵るだけでした。
 国家のエリート達がこのような「聖者」になってしまったのは、結局この数十年、所謂先進国では国家の存在意義を否定する言論が進み続けたからではないでしょうか?
 本来国家のエリートと言うのは、国家を守る為に国民から権力を託されて、また敬意と高額な報酬を得ているのです。
 ところがこの数十年、先進国の言論界では「人権」「世界平和」などの概念が、国家を圧倒するようになりました。
 そしてなぜか政治家にまで自国の国益や自国民の安全よりも、世界レベルでの「人権」や「世界平和」を優先するべきだと言う雰囲気が出てしまったのです。


 これは一見大変素晴らしい事なのですが、真面目に考えれば実にふざけた異常な話です。
 例えば国家をマンションの管理組合と考えればわかります。
 マンション管理組合の理事は、マンションの住民達の為にマンションを安全快適に保つように住民達から権力を託されているのです。
 そのマンションの理事会と理事長が、マンションの住民を無視して「人権」を優先して、マンションの管理費をホームレス救済に使う、廊下やロビーにホームレスを受け入れる。 
 マンションの住民が反対すると「お前達は不寛容で、人権を理解しない馬鹿だ!!」と罵る。
 これと同じ事を、現在の先進国の世界のエリート達がやっているのです。
 これはどう考えたってマトモじゃないですよね。


 ワタシも難民救済は立派だと思います。 しかしそれはあくまで自分の負担と責任で救済する場合です。
 けれど現在の所謂エリート達には、そんな発想はないのです。
 良い事だから「国」にやらせよう!!
 なのです。
 結局これは国家意識と責任感の欠如でしょう。


 エリートのエリートたる所以は、自分達が託された権力を、その権力を託してくれた人々の為に使い、その人々に奉仕する事なのです。
 以前、ウェデマイヤーの回想録「第二次大戦に勝者なし」を読みました。 この中でウェデマイヤーはイギリスのエリート軍人達について書いています。
 彼等は皆、絵に描いたような立派な紳士でユーモアと教養に満ちているのですが、しかしイギリスの国益を守る為には、常に一致団結してためらう事なく同盟国アメリカを嵌めたと。
 ワタシはこの時、これこそがエリートだと思ったのです。


 しかしどうも今はイギリスと雖もそういうエリートはいなくなった・・・・或いはいられなくなったのかもしれません。
 そして国家と国益を無視しても、美しい理想を煽る人々がエリートを名乗っているのです。
 結果は究極の無責任体制です。


 今回のイギリスのEU離脱やアメリカの大統領選挙で、離脱派やトランプを「レイシスト!」「右翼ポピュリスト!」と罵り続けたのもこうしたエリート達でした。
 でも結局遂に国家の主体である国民はこれにNO!を突きつけたのです。
 これは国家の復活だと思います。
 つまり国家を国際的慈善行行為の道具ではないことを確認したのです。
 国家はその主権者である国民が、自分達の生命と財産を守り、生活を向上させるために作った物であることを再確認する事になったのです。


「よもぎねこです♪」



もはや難民なんかじゃない!犯罪者集団がやってくる!大量移民によるヨーロッパ各地で起きた暴動、中国によるウイグル人虐待、そして日本へ、、、


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