先日、そこをお守りしておられるNさんを、友人のYさんと一緒に訪ねていった。
場所は南区の古刹である宝生寺の近く。
静かな住宅街の一画だ。鳥居が目印。この茂った緑の中に、
素朴な御堂と、水の涸れた池がある。
Nさんが御堂の扉を開けて下さった。
大小の蛙が幾つも置かれている。池に水があった頃、蛙がたくさんいた。
誰が始めたのかわからないが、蛙の置物に名前を記し、奉納されるようになったという。
千羽鶴もたくさん下がっていた。
いつごろの物かはわからない。
なぜYさんや私がこの御堂に興味を持ったかというと、由来が謎だったから。
「青龍弁財天」という名前にも心惹かれた。風水でいう龍脈(気が
通る道筋)を研究している友人によると、このあたりは横浜の龍脈の、
大事な喉首にあたる場所だという。
私達は近くにあるNさんのお宅にお邪魔し、御堂の由来を聞かせていただいた。
Nさんのお祖父さんがこの地に移り住んだのは、昭和初期。
まだ山の中同然で、満々と水を湛えた大きな池があった。
お祖父さんはその池のそばを開墾した。
その時、発見されたのが、いまも御堂の下にある井戸。
どういう人達が使っていたのかはわからない。
家を建てて住んだ夫婦には女の子(Nさんの叔母にあたる)が生まれた。
しかしその子が突然、お乳を飲まなくなった。
原因がわからない。困り果てた夫婦に、ある人が言った。
「中村橋に拝み屋がいる。来て貰えば?」
その拝み屋は、当時、よく当たると有名だったらしい。
アドバイスに従って、夫婦は拝み屋を招いた。
家に入るなり、拝み屋の声が裏返った。
「ここは古くから弁財天の住む地である。誰に断って家など建てたのだ」
明りを灯して祀るならば守護するが誓えるか」。
「お誓いします」と告げたところ、拝み屋は両のひらを合わせて、
前に突き出し蛇のように体をくねらせながら夫婦の周りを三度回った。
そして○月○日の御身体を現す、と告げてその時は終わった。
後日、妻が約束通り祀ろうとお盆に灯りとお供えを乗せ歩いていったところ、
急にお盆が重たくなり、動かなくなった。
そこに祠をつくり、祀り始めたのが最初である。
拝み屋の言葉通り、その場所には旧暦○月○日白い蛇が現れたそうだ。
やがてその祠には、巳の日に近隣の人達がお参りにくるようになった。
開墾の際、発見された井戸も30年くらい前までは使われており、
その水をお参りの人が持って帰ったりした。
N家でも、なにかある時は井戸の水でお赤飯を炊いたそうだ。
現在ある御堂は、その井戸の上に建てられている。
池の水がなくなったのは、下水が完備してから。
しかしいまでも大雨が降ると、水が溜まって昔を偲ばせるような
池になるそうだ。
ここのご神体は弁天様であり、蛇でもあったのだが、
ある時、また別の霊能者が来て、「蛇ではない」と言ったという。
それではいったいなんなのかは言わなかったそうだ。
古い写真を見せていただいた。
昭和11年。御堂の周囲はこんな感じだった。
池には水が張っている。
巳の日には自然と大勢の人が集まってきた。中にはご詠歌衆もいたそうだ。
(白い光は霊ではない。天井の明かりが反射したもの)
やがて開拓者である祖父母が亡くなり、Nさんのお父さんの代になると
だんだん周囲が住宅地として開け、様相が一変した。
お参りする人も少なくなり、ここは知る人ぞ知る存在になった。
「でもねえ、祖先が大事に守ってきたものだし、弁天様か蛇か、
それとも別のものかわかりませんが、なんらかの地霊がここに存在して、
地元の人の信仰の対象だったんだろうなと思うんですよ。
私は宗教となんの関わりもない人間ですが、土地の歴史として
伝えていくべきかなと思って、いまも祀らせていただいてます」
44歳。瀟洒な洋館に住むN氏は、穏やかにそうおっしゃった。
地霊とは大地に宿る精霊のことだ。その土地の自然、という意味もあると思う。
日本人は古来、地霊、すなわち自然を大事にしてきた。
いまはすっかり住宅地になっている場所に、山があり、大きな池があり、
蛙や蛇が多く住み、井戸を掘って住んでいた人々がいた……
という歴史がわかるだけでも、私はこの青龍弁財天が存在する意義はあると思う。
横浜市南区のサイト「七つの丘」の「堀ノ内の丘」にも紹介されている青龍弁財天。
http://www.city.yokohama.lg.jp/minami/60profile/62midokoro/620001.html
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