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冬桃ブログ

66年前、横浜も瓦礫の町だった。

 中華街、元町、大桟橋、赤レンガ倉庫……横浜の中心地は
いつも華やいでいるが、いまから66年前は無残な瓦礫の山だった。
 米軍機による無差別爆撃。死者8000人から10000人と言われている。
 
 戦争では、日本も他国にひどいことをした。だから、アメリカが
どうこうと言いたいのではない。しかし災害の時など(今回もそうだが)
協力し合って一人でも多くの命を救おうとする人間が、戦争となると
なぜかくも残忍なことができるのか。
 これほど矛盾した生き物は、おそらく人間だけだろう。
 
 1923年(大正12年)、横浜は関東大震災によって壊滅状態になった。
 人々はおびただしい瓦礫を海に沈め(当時は有害物質の出る建材も
すくなかったのだろう)そこを公園にした。それが山下公園だ。
 ほどなく元号も昭和に代わり、もとの平和が戻ったかに見えた。
 しかし戦争が勃発。大震災からわずか22年後の1945年5月29日、大空襲
により、横浜はふたたび瓦礫と化したのである。

 私の住まいの最寄り駅に京急・黄金町駅がある。このあたりはことに犠牲者が
多く、焼死体の山が築かれたそうだ。
 駅近くにある普門院というお寺で、毎年5月29日に供養が行われていると
聞き、私も行ってみた。付近はビルだらけの下町だが、ここは深い緑に
包まれ、別世界のような静寂があった。石段の前まで来ると、もう中から
読経が聞こえた。

 本堂には椅子が三十脚近く並べられていたが、列席者は十人に満たなかった。
 年々、遺族も亡くなり、戦争の記憶も薄れていくのだろう。

 いま、大空襲の跡と同じような瓦礫の山が、被災地にある。
 被災地でも多くの人がなくなり、生き残った方達も大切なものを失った。
 でも、と私は思う。戦争の方がより悲惨かもしれない。
 被災地には、日本の各地から支援物資が届き、ボランティアがやってくるが
空襲で焼け跡になった街には、そんなものなどなかった。
 米軍の残飯を集めた雑炊が売られ、飢えきった人々がそこに列をなしたという。

 親を亡くした子は浮浪児になった。誰も助けてくれない。
 大人だって自分が生きるだけで精一杯だったのだ。
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)の手当もへったくれもない時代である。
 生き残る力と運がなければ、孤児は飢えた子犬のように死ぬしかない。
 若い女は占領軍兵士達に身を売り、家族を養った。
 このあたりのことは「天使はブルースを歌う」(毎日新聞社)という
拙著にも書いている。

 ひときわ被害が激しかった黄金町近辺は、焼け跡から復興した後も
必然のように麻薬と売春の集中地帯となった。
 黒沢明監督の映画「天国と地獄」にも、凄まじい麻薬・売春窟として
大岡川沿いの黄金町ガード下が登場する。

 川沿いはその後も「ちょんの間」街として全国的に有名だったが
ここ数年で変わった。いまは発展途上の静かな町だ。
 私はいつもここを歩いて、日ノ出町や野毛へ行く。

 おとといの5月29日。66年前の炎を消そうとするかのような雨が
一日中、降り続いていた。
 読経が終わってから、境内にあるお地蔵様にもお参りした。



 それから近くにある「タケヤ」という喫茶店に入った。
 いつも前を通ってはいるが、入るのは初めて。
 「探偵 濱マイク」シリーズに登場しそうな古い店内。
 猫が四匹もいる。壁には古いソウルミュージシャンのポスターが
何枚も。


 これまでいろんな町に住んだが、この町はなんだか、
一番、私にあっているような気がする。
 あったかいコーヒーを飲みながら、そんなことを思った。 
 
 
 

コメント一覧(10/1 コメント投稿終了予定)

冬桃
残しておきましょう
http://members2.jcom.home.ne.jp/noa411/
R3さん

 ほんとうにねえ、横浜はこの150年を振り返っ
ただけでも、街の景色がずいぶんと変わってますよね。
 その都度、立ち直ってきたから凄いのですが
失ったものと一緒に、人の思いも消えてしまう
のは残念です。
 せめて写真を、ネット上にまとめて残し、誰
でも見られるようにしようじゃないか、という
試みが始まっています。ネットにアップするだ
けですから、もちろん提供した写真は本人の手
元にちゃんと残ります。
 多くの方に活用していただきたいです。


みんなでつくる横濱写真アルバム
http://www.yokohama-album.jp/
R3
開港記念日前日ですね
震災後、関東大震災が起きたときの横浜はどのような状況だったのだろう、と気になって、いくつか本を読みました。

また震災当時、神奈川新聞の社長をされていた三宅磐さんのお名前を、いつでしたか開港資料館で行われた神奈川新聞展以来、よく目にしました。ありがたい方が横浜にいらしてくれたのだなぁと思いました。

都市発展記念館、日本新聞博物館に行くと、さらに当時の様子を知ることができて、大変なことがあっても現在に続いている事実をしみじみ感じました。

震災や戦争で様々なものが消えてなくなってしまいましたが、百年後、二百年後に東日本大震災についての記事を目にする人たちのためにも、いろんな情報が残ってほしいと思いました。
冬桃
華やかな
http://members2.jcom.home.ne.jp/noa411/
さちこさん
 私も都会に憧れ、生まれ育った町を早く出て
いきたかった人間です。でもおっしゃる通り、
いまは故郷の海が恋しいです。
 戦争のこと、差別や偏見のこと、子供にはや
っぱり教えた方がいいと思います。年齢に応じ
て、親が自分の考えを実践するかたちで。

いしばしさん
 戦争にまつわる話は、私もずいぶん読んだり
聴いたりしたつもりです。けれども「想像」は
「現実」を超えられないでしょうね。
 亡き夫は戦争体験者なので、よく話してくれ
ました。焼け焦げた死体が山積みになってたこ
となど……。
 この華やかな横浜の真ん中でそんなことがあ
ったなんて、信じられませんよね。
 でも事実です。街が持っている記憶の重さを
しみじみと感じます。
 消えた焼き物は真葛焼のことでしょうか?

curtisさん
 お父様もそんな体験をなさったのですか。し
かも震災まで!
 親の人生……私も、母が常に冷蔵庫をいっぱ
いにせずにいられないのを、呆れて見てました
が、あの世代は切実に食糧難を体験してるんで
すよね。18歳上だった夫も、「頼むから俺にカ
ボチャだけは食べさせないでくれ。あの頃は、
来る日も来る日もカボチャだったんだぞ。それ
がどんなことかわかるか?」と言ってました。
curtis
今更ながら
私の亡き父も東京大空襲で荒川区を焼け出され、伊豆の親戚を頼り東京からリヤカーを引いて納屋で一年暮らし、今の実家に定住しました。以前伊豆沖の震災で二度被災した時も、「丸裸から始めたのだから大丈夫だ」と言ってたこと、当時中学生の私は頼もしく感じながらも聞き流していましたが、今回の震災で、今更ながら、親の人生を初めて考えました。
いしばし
知り合いの話
御無沙汰を・・・

今の平戸あたりから空襲された方の空が
真っ赤に染まっていたそうです。

その方は、現平戸あたりの農家であったので
戦時中も特に食料に困ったことはなかったとか・・・

その方の亡くなられたご主人曰く
焼け野原になった横浜の水道管を掘っては
売りに行ったり、自分の陣地取りのように
勝手にバラックを建てたりしてる状態だったそうです。

のちに、進駐軍の荷揚げのバイトをしたりして
コーラの樽に穴をあけて目を盗んで飲んでは

「ホールドアップ!」

と銃を突きつけられたと笑ってました。

さらに別の人の話ですが
当時の横浜、神奈川県庁の地下には
たくさんの蜂蜜とか貯えがあり、上の方の人で
持って逃げた・・・という都市伝説的な
話も聞きました(^-^;

この空襲で、横浜を窯元とする
焼き物たちが途絶えてしまっているのも
残念です・・・

さちこ
憧れと現実
都会に憧れた事と、いろいろあったので、早く地元を離れたかったのですが、落ち着くのは、小さい頃から食べ慣れたものだったりする事に気付きました。
緑があると落ち着きます。



防空壕が家の近くと、父方祖父の家の近所にありました。友達はおもしろがって入って遊んでいましたが、私は怖くてダメでした。
親が戦争をテーマにしたものなどを積極的に見せていたからかもしれません。

いいかわるいかはわからないけれど、知ると言う意味ではよかったと思っています。息子にもそうするかも?
親に倣うことは何もないと思っていましたが、ご飯を作っているときなど、ふと感謝したりします。
年をとったって事でしょうか^^?
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