人生の岐路で迷子になりかけたことは何度もある。
50歳を目前にした、あの時もそうだった。
癌を患った夫の介護に疲れ果て、自分のことを
気遣う余裕もなく、心身も仕事も行き詰っていた。
雑誌の長編連載という大事な仕事も、一回目を書いた
きり、あとが続かない。作家としては最悪の事態である。
そんな状況を知ってか知らずか、毎日新聞社の出版部から
書きおろしの依頼があった。ありがたいことだが、
「なにも書けません。なんにも浮かばないのです」
と正直に告げるしかなかった。
すると編集者は表情も変えずに言った。
「小説がかけないのならノンフィクションを書いてみませんか」
…と言われても、そのジャンルは書いたことがないし、題材も
持ち合わせていない。
無理です、という私に、彼は動じることなく、ある提案をした。
1960年代の末から70年代にかけて、たった二年くらいだが
グループサウンズ(GS)全盛期というのがあった。そこに横浜出身の
ゴールデンカップスというグループがあって、音楽性の高さと
横浜ブランドで人気を博した。
「山崎さんは同世代でしょ? 彼らのその後を追うことで
横浜の戦後史みたいなものを書いてみませんか」
なにやらわからないまま、あいまいに頷いたように思う。
数カ月後に夫が亡くなった。
そこからようやく、若いころテレビで観ただけのGSを
古い雑誌や週刊誌などの資料で調べ始めた。
まだ携帯電話もパソコンも一般的にはなかったので
取材はすべてアナログだ。
ノンフィクションのメインを、当時、リードギターであり、
いまはソロ歌手として「横浜ホンキートンクブルース」という
ロングヒットを持つエディ潘に定めた。グループではなく
個人を中心に据えたほうがいい。彼は中華街出身で
もっとも横浜らしい存在だと思ったから。
関内の小さなライブハウスで、作家の故・平岡正明さんに
エディさんを紹介していただいた。芸能人に会ったことがない
わけではないが、ロック&ブルース歌手、ギタリストという
分野の人は初めて。それに彼は不健康な感じに太っており、
不愛想で迷惑そうで、とりつくしまがなかった。
「何人もそういう人が来たけどねえ、結局、書かなかったよ」
と、にべもなく言われたが、私は彼が出演している関内の
ライブハウスに足しげく通った。当時は郊外に住んでいたので
終わりまでいると電車がなくなり、タクシー代が嵩んだ。
帰宅すると彼のCD「BLUE JADE」を明け方まで聴き続けた。
初めてのノンフィクションで、取材相手を前に緊張しまくっている
私と、ろくに話してくれないエディさん。できることは
とにかく彼の歌を聴くことだけだったのだ。
でもそれで正解だったと思っている。エディさんとはずっと
敬語のまま。打ち解けない分、周囲の人に多くの話を聴いた。
それがすべてではないが、ノンフィクションの場合、取材相手とは
一定の距離を保っておく必要がある、と私は思う。
親しくなってしまうと余計な思い入れが入り、客観的に書けなくなるから。
ある日突然、エディさんの側から、ストーリーの「核」が
もたらされた。戦後間もなく横浜を接収した占領軍と、
日本女性との間に生まれ、GIベイビーと呼ばれた子供達の逸話。
混乱期であり、実質上、日本に主権がなかった時期なので、
その子たちの多くが消息不明になった。さらには「あいのこ」と
呼ばれ、差別された。まさしく、私やエディさんと同時代の子供達。
私達が青春を迎える頃、日本は高度経済成長期へと突入し、
若者たちの間には欧米文化が花開いた。欧米の容姿を
持つ混血児たちは「ハーフ」と呼び変えられ、芸能界で
もてはやされるようになった。
カップスのメンバーであきらかにハーフと言えるのは
ベースギターのルイズルイス加部だけだったが、メンバー全員、
ハーフっぽい名前をつけられた。
まさに彼らは日本の戦後、そして横浜の戦後そのものだったのだ。
こうして1999年、私にとっては初のノンフィクション
「天使はブルースを歌う」(毎日新聞社)が刊行された。
その20年後には亜紀書房から装丁を新たにして、再刊行された。
距離を縮めず、敬語のままで通したおかげで、エディさんにも
誰にもおもねることなく、好きなように書かせてもらった。
エディさんは読んだはずだが、感想を聞いたことはない。
ただある時、「山崎さん、あの続編を書くべきだよ」
と、ぼそっと言われたことがある。それで充分だった。
「女たちのアンダーグラウンド」(亜紀書房)を、その
言葉に勇気を得て書いた。
エディさんが逝って一週間が過ぎた。
共通の友人のおかげで、入院中のエディさんを一度だけ
見舞うことができた。点滴に繋がれたエディさんは、意識
朦朧状態。話はできなかったが、目は開いていた。
その目は確かに私を見返してくれた。呼びかけると、
握った手にも少し力が入ったようにも思えた。
私の思い込みに過ぎなかったかもしれないが。
いまから25年以上も前、行く当てを見失っていた私に
彼は道を与えてくれた。なのにそのお礼を、きちんとした
言葉で伝えたことがない。
仕事の関係が終わってからも、敬語をめったに崩せないほど、
彼の前では緊張していたから。
長い付き合いの中で、打ち解けて話すことは一度もなかったけど、
私たちは同い年。私がそちらの世界へ行くのも、そう遠い話じゃない。
その時は、思い切ってタメぐちでいくつもり。
「エディさん、会えて良かった! どこかで飲もうよ、
じっくり聞きたいこともあるんだからさあ!」
なんてね。
向かって左からジョー山中さん、私、エディ潘さん。
ジョーさんもGIベイビーの一人として施設で育った。
彼ももう、私達より先に逝ってしまった。
歌・作曲:エディ潘 作詞:山崎洋子
「丘の上のエンジェル」
亡くなったGIベイビーたちの慰霊碑を建立するため、
山手ライオンズクラブから依頼されてつくった
チャリティーソングです。