数日前、S村から横浜に戻った。
さぞかし暖かいだろうと思い込んでいたら、寒いのでびっくり。
それから連日、みなとみらい、元町、中華街と、おのぼりさんの
ように出かけ、会いたかった人たちと会い、美味しい料理と
会話を楽しんだ。
博物館へも出かけ、横浜の歴史を再認識した。
そして今日は久しぶりに自宅で独り、テレビを観続けた。
3月11日。14年前、東日本大震災が起きた日。
振り返るたび、どうしようもなく涙が溢れる。
あの日、私は仕事で鳥取から兵庫へと移動していた。
関わりのあったイベントが行われる日で、現地の人々は
活き活きとその準備に励んでいた。前日、揺れはあったし、
地震のニュースも流れていたが、多くの人が、その後の
酷すぎる展開までは予想していなかったのだ。
ありがたいことに翌日は新幹線が動き出した。
イベントを最後まで見届けたい、と言う同行者を強引に急かし、
私は横浜に帰った。
マンションの一人住まい、猫も二匹いる。
横浜も震度3~5だったと聞いて心配でたまらなくなったのだ。
マンションは無事に建っていた。が、中の様子を一瞥して
立ち竦んだ。猫は無事だったが、食器棚も箪笥も戸が全部開き、
スチールの本棚はぐにゃりと曲がって倒れていた。
書庫にしていた部屋はドアが開かない。部屋の四面すべてが
本棚なのだが、一部はレールを敷いた造り付け。それが倒れ、
落下したおびただしい本がドアを塞いでいたのだ。
ここにいたらどうなっていたことか、と背筋が寒くなった
おそらくこの部屋は震度5だったのだろう。
仕事はすべてストップし、 どこへも行けなくなった。
誰とも会えない。みんな自分のことで精一杯。
話す相手もなく、一日中、テレビ画面を眺めていた。
地震だけでは終わらなかった。津波、原発事故と、日毎に
惨状が広がっていく。それに比べて私の被害など「被災」と
言えない程度だったのだが、毎日、涙が止まらなかった。
被災した方たちのことを思って……というより、正直に言えば、
こんな時、心を寄せ合う家族すらいないという自分の境遇が、
身に染みて淋しく、辛く思えてならなかったのだ。
孤独は心だけではなく体もむしばむ。食べ物が喉を通らなくなり、
睡眠薬を服んでも眠れない。這うようにして近所の病院へ行った。
体調が悪いんです、としか言えなかったが、そういう人は私以外にも
いたのだろう。医師はろくに話も聞かず、なんだかわからない注射を
お尻に打った。ひどく痛い注射だった。
一週間ほどたってようやく外に出てみたが、どこもかしこも暗かった。
あれから14年。間にコロナ禍という時代もあったというのに、
横浜は明るすぎるほど明るく、国内外の人で溢れている。
あの時、みんな必死で電力節約に努めたのに、少し明るくなった時だって、
もうこの先もこれくらいの明かりで充分だと思ったのに、
この凄まじい消費はどうだろう。
S村の畑はお天道様次第。昨年のように暑さが厳しく、雨が少ないと
宮沢賢治じゃないけど「おろおろ歩き」になる。その前年はトマトも
茄子もいっぱい獲れ、どうやって食べようかと、嬉しい苦労をしたが、
昨年は夏野菜だけではなく、冬の食卓も護ってくれると期待した
白菜、キャベツ、大根などがいまいちだった。
だけど畑仕事の大変さを知ったから、豊作だろうと不作だろうと
葉っぱの一枚もなるたけ無駄にしないよう、使う癖がついた。
人の息吹を堪能できる都会が大好きだが、今日という日は、
ことのほか、自然を恐れ、敬うことの大切さを、あらためて考えずには
いられないのである。
どこかで早々に羽化し、ベランダの冊子を開けている間に
入ってきたモンシロチョウ。
春はちゃんと始まっているらしい。