猛暑だろうが嵐だろうが、必ずやってくる。
それが誕生日。
前日の8月5日にはちゃんと思い出していた。
明日は私の誕生日だ。
広島の「原爆の日」だ、と。
だけど、明けて6日の朝にはすっかり忘れていた。
いつものように朝食をこしらえ、テレビで
ニュースを観ながら食卓に朝刊を広げる。
へえ、今日はやたらと原爆や広島の記事が多いねえ、
なんて読み進むうちに、ふと、そうか、そういう日だった、
そんでもって私の誕生日だ、とようやく思い出した。
このボケようは、脳が正しく老化衰退しているせいだが、
いつもの8月6日の朝なら「黙祷」のニュースが流れるのに、
この日はレポーターやキャスターのハイテンションな
オリンピック・ニュースばかりだったせいもある。
そういうことにしておこう。
私はあまりプラス思考の人間ではないので、
ああ、また「できない」ことがひとつ、いや二つか三つか
増えるんだなあ、という感慨しか湧いてこない。
年をとるということは、昔はあたりまえに持っていた
「未来」や「友人」や「チャンス」をなくしてゆき、
気が付いたら孤独になっていた……ということだ、私にとっては。
でもまあ、それを確認しながら生きることはさほど悪くない。
むしろ、生きて、そのことをちゃんと体験できたのは、
なかなかサプライズなことではないか、とさえ思う。
前世も後世も信じないので、自分の一生は一度きり。
おまけになにかとマイナス思考の私が、とりあえず
いまこの瞬間はまだ生きてて、なにかしらの体験を、
まんまとしているのだから。
もう半世紀も前のことだが、ニューギニアで家を借り、
一か月半滞在したことがある。
その家にはハウスボーイと呼ばれる男性が付いていて、
掃除などをやってくれる(ということだったが、実際は
ぶらぶらしていただけ)のだが、彼に年齢を尋ねると
「知らない」と答えた。一度も自分の年齢について
教わったことがないし、村の人はみんなそうだと。
言われてみると、彼は17歳にも37歳にも見えた。
「年齢を意識せずに生きてる」という人は、日本にだっている。
でもその人がどう思おうと、日本人は、いやおそらく
たいがいの国で、年齢はついてまわるだろう。
年齢で可能なこと(飲酒とか運転免許とか)もあれば、
制限されることもいっぱいある。
私は保護猫を飼うこともできないし、臓器提供も
「望ましくない」範囲に入る。
だからどうなんだ、ということを考えることさえ、
昨今は面倒くさい。
それでも誕生日は忘れずにやってきて、
どうやら昨日とはなにかが変わったらしいことを
親切に囁いてくれるのだった。

いただき物の白茄子を、ネットのレシピを参考に炒めてみた。
美味しいねえ! 黒茄子の炒めたものとどう違うか、と問われると
うまく答えられないし、あの真っ白な姿が活きてないじゃないか、
という問題もあるのだが、美味しいんだから私としてはかまわない。
横にして三センチくらいに切った茄子を、ちょっとあく抜きして、
碁盤の目状の切り込みを入れ、油で炒め蒸し。
柔らかくなったら、醤油、酒、砂糖、生姜をあわせたタレを回しかける。
料理は簡単なのがいいね。
熱々より、冷めたくらいの方が私は好きかな。
