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冬桃ブログ

長野の旅その3 東御(とおみ)から小諸へ

 ゆうべはペンションに到着してお風呂に入り、部屋に戻ったら、
もう隣の部屋から田上さんの鼾が聞こえていた。
 まだ十時にもなっていなかったので、しばらくテレビを観てから寝た。
 朝は早くに目覚め、六時半頃、リビングに。新聞を読んでいると、
田上さんが散歩から戻ってきた。夜も早いが、その分、朝も早いようだ。

 お茶を飲みながらお喋りした。田上さんは饒舌だ。「聞いて! 聞いて!」
という感じ。人とのコミュニケーションに飢えてらしたのだろう。
 私もホームレスとの付き合いは初めてではない。横浜のドヤ街である寿町に出入りし、
「ヴィーナス・ゴールド」という小説を書いた。
 私のホームドクターである「ポーラのクリニック」院長、山中先生は
ドヤ街の住人をもっぱら診ている方だ。

 田上さんについては「文藝春秋」を読む前に佐藤さんから聞いていた。
 三月の初めだから震災前である。大通り公園でばったり会ったそうだ。
 その後、菅総理から佐藤さんに電話があり、田上さんがホームレスに
なってるそうだが連絡先を知ってたら教えてほしいと言われた。
 田上さんはその時、すでに文藝春秋の取材を受けており、プリペイドの
携帯電話を持たされていた。佐藤さんはその番号を菅さんに教えたという。

「文藝春秋が出てからは凄かったんですよ。いろんなマスコミが殺到して……」
 田上さんは楽しそうに話す。テレビはもちろんのこと、女性週刊誌まで来た。
 彼はそのつど大いにサービス精神を発揮し、相手に請われるまま身障者トイレで
髪を洗ったりしてホームレスの生活を見せてあげたそうだ。
 が、直後に大震災、津波、原発事故。
「全部、吹っ飛んじゃったんですよ。文藝春秋も第二弾、第三弾を出す予定だったのに、
記者も被災地へ行っちゃって……」
 菅総理からはまだ電話がないようだが、旧友のことどころではなくなったのだろう。
 
 政治家の家に一人息子として生まれ、慶応大学を卒業する頃、八十歳の
市川房枝さんを参院選に出馬させるための会を東工大を出たばかりの菅直人氏と
共に立ち上げ……というあたりは文藝春秋に詳しく載っている。
 田上さんが結婚した時も仲人は菅さんだった。
 その後、菅さんは政治家としての道を順調に歩み、ついに総理大臣にまでのぼりつめた。
 しかし田上さんは借金、破産、離婚と「負」の道を突き進み、二〇〇七年頃から
とうとうホームレスに。
 なまじ、恵まれたお坊ちゃん育ちだったのが災いしたようだ。
 資源ゴミで出される本を集め、ブックオフなどに売る。それが唯一の収入で、
あとは炊き出しに並んだりして食いつないできた。
 それでも生活保護を受けようとは思わなかったという。

 いろんな取材を受けたものの、長い孤独はまだ埋まらないらしく、
田上さんの言葉は噴水のように溢れ出る。一時間ほどたった頃、佐藤さんが現れ、朝食。
 田上さんは御飯を四杯もお代わりした。
「こんなもんじゃないんだから」
 と、佐藤さん。
「前に来た時は、その宿の朝御飯で二つめのお櫃まで空にしちゃったんだよ」
 
 この大食もホームレス生活で培ったものらしい。伊勢佐木町には朝定食350円、
御飯のお代わり自由という店がある。そこで一日分を食べ溜めする習慣がついたそうだ。
 見れば、四杯もお代わりしたわりに、おかずがたくさん残っている。
 もちろん後からきれいに食べるのだが、これも少ないおかずで何杯もの御飯を食べるための
「配分」癖なのだろう。
 朝だけではなく昼も夜も、出されたものを田上さんはきれいに召し上がる。
「あの歳であれだけ食べるのは健康に悪いよ。あらためたほうがいいなあ」
 と、佐藤さんは心配していた。

 東御のペンション「さゆーる」の前で素敵な女性オーナーと。


 さて、昨日の会議で出た意見を受けて、佐藤さんはさっそく動き始める。
 まずは長年、地方と都会を農業で結ぶ活動を続けてきた佐藤さんが
「日本の農業の未来を背負って立つ素晴らしい青年」と絶賛する荻原昌真さんのところへ。



 荻原さんは兄弟で農場を経営している。女性誌の「オレンジページ」と組んで
農業体験や夏祭りなどのイベントも行っている。
「被災者に関しては僕もできる限りのことをしたいと思ってます。けど、長野には
使ってない農地があるからそこで被災者が農業を、というのは短絡かもしれませんね。
 放棄された土地はそれなりの理由があって放棄されてるんです。飛び地だとか水捌けが悪いとか。
 長野県は確かに農業人口が日本一ですが、農業収入となると低いんですよ。
 農産物生産額でいうと十三位とか十四位ですから。この状態で農業人口だけが増えると、
一人当たりの収入はますます減ることになり、共倒れの恐れもありえます」

 中国人の労働者を数百人受け入れているところもあるが、それは彼らの賃金が安いから。
 同じ賃金で日本人が働けるかどうかも疑問だと荻原さんは続ける。
 もちろん、荻原さんは否定的な意見だけではなく、こういう方法はどうだろうと、
 前向きな提案もいろいろと出してくださった。
 非常に明晰で、農業に詳しくない私にもわかる話だった。

 次に訪問したのは東御市役所。

 花岡市長(向かって左)と佐藤さん。


 いまこの市がしていること(被災地に役所業務の代行ができる公務員の派遣、毎日の給水活動)、
これからできそうなことを話し合う。私ではなく、もちろん佐藤さんが。
 田上さんと私は、いまのところそばで話を聞いているだけ
 
 昼食の後、小諸へ。荻原さんのところで会った人が新聞の切り抜きを持っていた。
 小諸のジオ・パラダイスという工房が被災地のためにプロパンガスの空きボンベを
改良してストーブをこしらえたという記事がそこに出ている。それでお風呂も沸かせる。
 佐藤さんはさっそくそこを訪ねるという。
 夕方には長野市へ戻らなければならない。時間がない、と言いながらも、
いざその工房に着くと、佐藤さんは青野さんという工房のオーナーと熱心に話し込んでいた。

 プロパンのボンベを改良したストーブ。30畳くらいの部屋でも暖まるという。


 そのあいまにも佐藤さんの携帯は頻繁に鳴る。
「お宅の社宅を被災者のために貸していただけないでしょうか」
 と、ていねいに尋ねている。
 相手は企業のオーナーのようだ。しかしオーケーしてくれるとは限らない。
「もっと強く言ってもいいんじゃないですか、こんな場合だから」
 私がつい口を挟むと、佐藤さんはかぶりを振った。
「駄目だよ。相手が心からその気になってくれなきゃ押しつけになるでしょ。
 そうすると被災者を受け入れてくれたとしても、どこかに遺恨が残ったりする。
 被災者にも微妙にそれが伝わったりしかねないからね」
 なるほど。浅はかなことを言ってしまった。
 
 長野駅に帰り着くと、今回の私の旅は一応終わり。
 ちょっと高くつくが猫たちのことも心配なので、帰路は時間の短い新幹線にした。
 佐藤さん達はまだまだこういう毎日が続く。
 また四月半ばに長野へ行くつもりでいるが、そばで見ているだけではなく、
 私もせめて「猫の手」くらいにはなれないものだろうか。
 なりたいと、切に思う。
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