昨日、夕食を共にした郷土史家の小林竜太郎さんが「長野は栄村が
被災したのですが、ほかはたいして揺れなかったんです。放射能の
問題もないですしね。日本中が大騒ぎだというのに、なんだかよそ
事という感じで、わりあいのんびりしたムードなんですよ」と申し訳
なさそうにおっしゃっていたが、私も横浜から離れただけですっかり
体調がよくなっていた。
思えば阪神淡路大震災の時は、私も「よそ事」だったような気がする。
被災の様子をテレビで観ながら「うわあ、たいへんだなあ」と心を
痛めたものの、自分の日常にはなんの変化もなかった。
被災者の苦しみをほんとうにわかっていたとは言い難い。
しかし今回は違う。地震の被害は本箱の倒壊程度だったし、うちの
あたりは計画停電区域にも入らなかったが、連日テレビに映し出され
る被災地の惨状、日を追うに従って深刻の度合いを増す原発、それが
仕事や日常生活に直接響いてくる。いまだに日に何度も揺れがくるし、
これで東海大地震が起きたら、浜岡原発が福島第一のようなことになったら
……と、不安を通り越して虚無感で何も手に付かなくなった。
いまもその関連で長野へ来ているのだが、雪をかぶった山や青空、
街ゆく人の表情など眺めていると、現実をふと忘れる。
ホテルをチェックアウトして佐藤さん、田上さんと合流。新建新聞社
の社屋ビルへ。この会社の社主である伊澤和馬さんが、本日、発足する
「みんな家族」という被災者受け入れプロジェクトの中心になる。
伊澤さんは阪神淡路の時も、三ヶ月で延べ8000人というボランティアを
被災地に送り込んだ実績を持つ。
被災者を温泉地に招待してゆっくり温泉に入って貰うとか、必要な物資
を送る、といったところから始めて、最終的には福島の避難民を村単位、
町単位で長野へ受け入れ、新しい故郷にしていただくところまでもってい
きたいという。松本市が震災孤児の受け入れを決定したようだが、その
サポートも目指している。
伊澤さんと佐藤謙一郎さんの挨拶を皮切りに第1回目の会議が始まった。
私はこの会の会員ではなく、いわば傍聴者という立場。
約30人の出席者は県会議員、建設業者、阪神淡路の際に神戸で被災した人、
まちづくりグループの代表など、さまざま。
「一時的なボランティアではなく継続してやれることを」
「行政レベルより市民レベルで必要なことをケアしたい」
「とはいえ、行政の政策とかみあうようにやってもらわないと困る」
「移住すると補助金が出ないから被災地を動かないという被災者がいる。
安心できる情報を早く提供しないと」
「阪神淡路の時は被災者を抽選で仮設住宅に入れたため、近隣がばらばらに
なり、孤独感から自殺する人が相次いだ。地域をひとかたまりで受け入れることが大事」
「いきなり移住させるのではなく、まず現地に出向き、避難してる人達と
じっくり話し合い、安心してもらってから受け入れるべき」
「行政レベルで受け入れがばらばらにならないよう、観光、農政、林務の
部門を連携させること」
二時間の会議でいろんな意見が飛び交った。それだけに、この意見をまとめ、
調整し、実行に移すのはたいへんだろうなと、「傍聴者」の私は思う。
会議のあと、私と田上さんは、会議に出席していた美術家の小池雅久さんの店
「まぜこぜ」でお昼をいただいた。
向かって右が小池さん、左が小林さん)
小池さんも小林さんも門前研究会(門前町を活気づけようという活動団体)の
メンバー。小池さんは近々、善光寺の住職と一緒に被災地である気仙沼に行かれるそうだ。
そのあと、やはり研究会のメンバーで善光寺の歴史などを「絵解き」で伝えて
おられる小林玲子さん(竜太郎さんのお母さん)に善光寺を案内していただいた。
まちづくりグループの拠点も幾つか回った。そのつど、田上さんは「しばらく
こちらで活動しますのでよろしくお願いします」と、ていねいに挨拶。
善光寺の門前では若いアーチスト達がいろんなアイデアを持ち寄って活動している。
我が横浜の「黄金町」にも、早くこの活気がほしいものだ。
伊澤さんとの打ち合わせを続けていた佐藤さんと合流。佐藤さんが運転する
レンタカーで東御(とうみ)市へ。
途中で食事を済ませ、今夜の宿になるペンション「ふれーゆ」へ着いた時は、
もう夜もふけていた。
オリオン座も北斗七星もくっきりと見える。星が大きい。多い!
寒さも忘れてしばし見とれた。
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